2017年8月27日 聖霊降臨後第12主日「あなたが与えなさい」

マタイによる福音書14章13~21節  小杉 直克 兄

 今日の福音書は「イエスはこれを聞くと」から始まります。「これ」とは14章1節からから始まる出来事です。それはヨハネがヘロデ王によって処刑されたという出事です。ヨハネとは洗礼者ヨハネのことです。イエス様はこの知らせを聞かれて人里離れた所に行かれましたが、群衆は方々の町から歩いて後を追う様について行きました。時が経ち夕暮れになりましたので弟子達は群衆を解散させて下さい、そうすれば自分達で村へ行って食べ物を買うであろうからとイエス様に言います。しかしイエス様は「行かせることはない。あなた方が食べ物を与えなさい」と言われます。しかしそこには五つのパンと魚が二匹しか有りませんでした。そこでイエス様はパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えました。すると五千人もの群衆がパンと魚で空腹が満たされました。このパンと乾燥した魚という食事は当時の人々にとってはごく普通の食事であり、ごく質素な物でした。この出来事は共観福音書即ちマタイ・マルコ・ルカの三福音書は勿論のことヨハネの福音書にもこの出来事が載っています。その事からこの出来事は大変大切な事柄また色々な内容が含まれている事が判ります。

 この物語は五千人の人に食べ物を与えたと云われていますが、21節には食べた人は、「女と子供を別にして、男が五千人ほど」とありますから実際はそれ以上の群衆がいたと思われます。その群衆の中にはイエス様に病を治してもらいたいと考えていた人も居れば、預言者ではないかと考えていた人もいたでしょう。或いはローマ帝國から解放してくれるイスラエルの王だと考えた人もいたでしょう。どの様な人であれイエス様は群衆を憐れみ全ての人々に食物を満腹に成る程に分け与えられました。この出来事はイスラエルの民が神様の導きでモーセを通してエジプトを脱出し、荒野で食べる物がなかったとき神様が食物を与えたあのマナの出来事を思い出させる出来事でもあります。(出エジプト記16章)

 さて時は夕暮れになり弟子達は群衆を解散させようとしました。弟子達とは後に十二使徒と言われたペテロやアンデレ、そうしてヤコブとヨハネの兄弟であり、この兄弟達は漁師でした。またマタイという徴税人達です。今風に言えば職人や役人や勤め人と言ったところだと思います。即ち特別な人々ではないのです。弟子達は言います。「ここは人里離れたところで、もう時間も経ちました。群衆を解散させて下さい。そうすれば自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。これに対しイエス様は言われます。「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と。これを聞いた弟子達はどう思ったでしょう。何を考えたでしょう。多分五千人もの人に食べ物を与えるなんてとても無理なことで、そんなことは出来ないと考えたでしょう。弟子達は今自分たちが持っている物を考えました。それは不可能な事だと考えたでしょう。なぜならここには五つのパンと二匹の魚しか無いということしか考えられなかったのです。即ち自分の目に見える現実しか信じることが出来なかったのです。弟子達は群衆の於かれている状況よりも自分たちの於かれている状況を優先させたのです。しかしイエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とマルコ書にあるように、群衆をみて憐れに思われたのです。飼い主のいない羊とは自分たちの進む方向も判らず、どちらに行けば良い餌となる牧草があるということも判りません。そのような状況にある群衆をご覧になり深く憐れまれたのです。

 「食べ物を与えなさい」この御言葉は今この人達にとって必要な食料即ち「糧」を与えると言うことです。私達が祈るときも「今日もこの日の糧をお与え下さい」と祈ります。「糧」とは食べ物だけを意味していません私達が生きていくために必要な物全てを意味しています。当時の人々には食べ物、食料は大切な糧の一つであったでしょう。今の私達にとっても生活が変化し多様化し複雑に成ってその優先順位が変化してもそれは変るものでは有りません。

 イエス様は弟子達に「食べ物」をあなた方が与えなさいと言われます。弟子を通して「糧」を与えなさいと。その糧を通して糧を与えて下さるお方を伝えねば成りません。

 先日新聞を読んでいましたら或る本の広告を目にしました。それは「キリスト教は役に立つか」という題名の本です。著者は来住英俊という方でカトリックの司祭をされている方です。この本は一般大衆向けに書かれた物で即ちキリスト者向けでは有りません。内容は聖書に書き示されている神様、イエス・キリストをどの様にしたら伝えることが出来るかと言うことが内容です。それには先ずイエス様と一緒に旅路を歩んだらどうかというものです。この本を読んだとき或ることを思い出しました。それは四国八十八カ所を巡るお遍路です。お遍路さんが巡るとき持っている木の杖に「同行二人」と書いてあるそうです。それは巡礼をするのは大変辛く苦しくて挫けそうになるときに弘法大師と一緒に歩いているあなた一人ではないということなだそうです。この本では、人の生き方または生涯を旅になぞられて書かれています。内容はイエス様と旅をしませんかというものです。人は生きていく中で色々な人と数々の出来事と出会います。その中でイエスという名前は時々耳にするが自分とは遠い存在と思っていましたが、はっきりとは意識はしていない。それが或るきっかけでふと意識するようになり、それを知ろうとする最初は大衆に混じって耳を傾ける。そうして「イエス」について知ろうとする。更に「主イエス・キリスト」と一対一の会話をするようになる。名前程度しか知らない数人の人と旅行をしている旅人が一人の人(主イエス)と一対一の間柄になるという、そのような内容です。

 主は天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達を通して与えられました。人々はそれで空腹が満たされたのです。主が与えられたのはパンと魚だったのでしょうか。主が与えられたのは主の人々を思う憐れみであり慈しみではなかったでしょうか。私達も同じです。主は何時の時にも私達と共にいて下さり慈しんで下さっているのです。更に主は御自身の十字架を全ての人々に与えられたのです。このことを私達も伝え与えていかなければ成りません。弟子達や人々、いや私達の領域では思いも依らないものを主は私達のためにご用意されているのです。

 教会は全ての人々に門を開けて向かい入れることを何時もしています。そこに集うキリスト者も同じです。それは門を開けて漠然と待っているということではありません。どんな時でもどの様な事情があろうとも主イエスの御名を伝えていきます。キリスト者は主の器として日々を送っています。器にはそれぞれの役目があります。お皿にはお皿のグラスにはグラスの役目があり各々その役割は違うのです。お皿はグラスの役目は出来ません。そうして主は器として私達を用いられるのです。私達は、主日以外は多くの時間を兄弟姉妹以外の人達の中にあって暮らしています。その中にあって神様から主イエスを通して日々の糧を与えられている事をどの様にして伝えていけばよいのでしょうか。先ほど本の話をしましたが、その本もイエス様を伝えようとして試みられたものでは無いでしょうか。
「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達にお渡しになった」とあります。主はどの様なときでも私達を執り成し、慈しみを持って寄り添い導いて下さるのです。この主イエスか与えられた賜を私達もまた与えていかなければ成りません。

 主よ、私達にあなたから頂いた糧を私達もまた与えることが出来る勇気とその道をお示し下さい。アーメン