2017年9月3日 聖霊降臨後第13主日 「私の弱さを知るキリスト」

 

マタイによる福音書14章22~33節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 「主よ、助けて下さい」。湖の中に沈んで行くペトロはとっさにこう叫びました。今日の福音書の物語は主イエスが水の上を歩かれた奇跡物語でありますが、マタイによる福音書にだけ、このようなペトロと主イエスのやりとりが記されています。ペトロはあのパウロと並んで、新約聖書の中にたくさん登場する弟子、使徒であり、詳しく描かれている人物です。福音書全体を読んでいただければペトロの人物像がより分かってくるかと思いますが、彼は信じては、躓いて疑いをもってしまい、主イエスから叱責されている場面がたくさん描かれています。再来週の福音書の物語で、彼は教会の土台となる「岩」と主イエスから呼ばれておきながら、その直後には主イエスの十字架と復活の予告に躓き、主イエスから「神のことを思わず、人間のことを思っている」とサタン呼ばわりされてしまうのです。極めつけは、主イエスの後にどこまでも従っていくと公言しておきながら、最後は主イエスの十字架から逃げてしまい、鶏が3度鳴くまでに、彼は主イエスのことを知らないと人々の前で言ってしまったことです。でも、その直後に、ペトロは1人で泣き崩れるのです。そのように信仰と疑いの両面性の中で、危ない橋を渡りつつ、人一番情熱的な一面を持っているのがペトロという弟子です。今日の物語に出てくペトロも、そのような信仰と疑いの只中で揺さぶられ、主イエスに抱え込まれている姿が描かれています。

 冒頭に「それからすぐに」と記されている通り、今日の物語は前回の5千人の給食物語の続きです。主イエスのもとに集まってきた群衆たちは、飼い主を失った羊のようであり、主イエスは彼らを深く憐れました。その憐れみは、5つのパンと2匹の魚だけで満腹になった5千人の人々の姿に示されています。さらに、主イエスの憐れみは今日の物語に繋がっているのであります。すなわち、主イエスは群衆を解散させる前に弟子達を舟に乗せて、先に向こう岸へと行かせました。主イエスはただお一人その場に残って、最後まで群衆と共にいました。主イエスがこのように急いでいた理由のひとつとして、ある説では、洗礼者ヨハネを殺したガリラヤの領主であるヘロデ王の手が主イエスたちに指し延ばされていたので、主イエスはそのことを事前に察知し、弟子達を先に逃がし、群衆の相手を最後までしたと言われています。ヘロデたちに追われつつ、群衆の相手をする主イエスは弟子達と群衆たちを見捨てることなく、最後まで彼らのために命がけで働かれました。主イエスの憐れみは突発的なものではなく、その人を真に生かす愛の御業であります。

 さて、弟子達を乗せた船は陸からかなり離れ、途端に暴風域に見舞われます。聖書の時代、湖や海は悪魔の支配する住処として人々から大変恐れられていたところでした。ひとたび風が吹き荒れ、大波が押し寄せると、船は揺さぶられ、漁師ですら、どうにもならなくなる状況が起こるのです。それは人間の力でもどうにもならない世界で、まるで暗闇や死と繋がっている世界です。

 そして、夜が明けるころ、すなわちこの時間は午前3時から6時頃だと言われています。ぼんやりした月の光が、激しい暴風を巻き起こしている湖を照らす中で、弟子たちが見たものは、水の上を歩いて自分達の方にやってくる主イエスの姿でした。それはあたかも弟子たちが声を上げて怖がったように、「幽霊」のような恐怖に満ちた存在に見えたのであります。確かに、その深夜の時間に暴風域の湖の中を歩いて来るなどありえないと思うのが普通です。弟子達の反応は、当然読者の私達でも理解できることですが、主イエスがすぐに弟子たちに話かけられたことに注目しますと、主イエスは弟子たちにこう言っています。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」あたかもそれは、一人で家の留守番をしていた子供が、不審者の影におびえつつ、親の帰りを待ち望んでいた時に、真っ先に安心できる言葉であります。そして、主イエスがその荒波の只中で、悪魔の住処とも言われる湖の上を歩いてきたことは、主イエスがその悪魔の住処、支配をも従わせる神の子であるということを証明しているのです。

 さて、マタイ福音書はここから一人の人物に焦点を当てていきます。ペトロです。彼はその主イエスの姿を見て、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。この嵐を沈めてくだいとは言いません。主イエスを信じるものとして、主イエスを信じれば、主イエスと同じように、たとえ悪魔の住処であろうと、暗闇や死の世界であろうと、その只中を歩むことができる。ペトロはそう受け止めたのでしょう。彼の言葉に対して、主イエスは来なさいと言われて、彼の様子を見守ります。

 ペトロは荒れ狂う湖の上に立ち、歩き始めました。しかし、歩くことができ、うまくいったかと思った瞬間、周りの強い風に気づき、怖気づいてしまい、その途端に湖の中に沈み込んでいってしまうのです。そして、彼は「主よ、助けてください」と叫びました。自分の弱さや恥を全てさらけだして、ずぶ濡れになりながら、ありのままの自分を主の前にさらけ出したのです。そんなペトロに主イエスはすぐに手を伸ばして彼を捕まえ、彼に言います。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。確かにペトロは途中で疑い、怖くなって、湖に沈んで行ってしまいました。主イエスを信じきることができなかった彼の弱さがその姿に現されているのかもしれません。信じると言って、信仰を持って生きていこうとするとき、様々な試練や苦難に遭遇し、揺さぶられて躓き、信じることができなくなってしまう経験がおありかと思います。けれど、主イエスにこう言われたのだから、「主よ、助けてください」というこのペトロの言葉と行為の中に信仰の薄さ、弱さを感じるでしょうか。ペトロの様な恐れを抱いてはいけないと思うでしょうか。疑ってしまうことは罪なのでしょうか。

 ペトロに躓きをもたらしたのは、強い風という恐怖です。自分の命をいとも容易く飲み込んでしまう死の恐怖です。自分だけの手ではもはやどうにもならず、自分の無力さを痛感させられ、ただその恐怖のままに立ち止まってしまう自分の姿が、このペトロの姿と重なってくるのではないでしょうか。

 だから、「主よ、助けてください」。ここにペトロの信仰の弱さ、薄さ、無力さを感じようとも、それがペトロという人物なのです。それは間違いなくペトロそのものなのです。主イエスを信じているから自分にもできると言った途端、怖くなって怖気づいて躓き、疑ってしまう弟子のペトロなのです。このペトロを主イエスはどうしたか。すぐに手を伸ばして彼を捕まえたのです。自分を信じきることのできない弟子などはいらないとは言われず、ただ彼をご自分の懐に捉えたのです。そして、信仰の薄い者と、彼のことをそのままに受け止められます。ですから、信仰の薄い者というこの主イエスの言葉はペトロを非難し、拒絶している言葉ではないのです。信仰の薄い弟子であるペトロがずぶ濡れになり、弱さと恥をさらけだしながら主イエスと共におられるのです。

 ペトロが主イエスのもとにたどり着いた、いや主イエスの方からペトロに近づき、ペトロを捕まえ、身許に留めてくださったのは、どんな時にもあなたを信じて歩んで行きますという堂々とした力強い信仰告白ではなく、「主よ、助けてください」。という弱さそのものを表す言葉でした。主イエスを信じて、それで自分は弟子として、またキリスト者として大きな信仰をもって、自信を持って歩んでいけると思ったとき、それが自分を軸においている歩なのか、主イエスを軸に置いている歩みなのか、それで異なってくるのです。

 「主よ、助けてください」。このペトロの言葉は、もはや自分に軸を持っていません。持てないのです。とことん自分が打ち砕かれ、目の前の恐怖の前にただただ打ちひしがれているだけなのです。誠に、自分に命を与え、自分を生かしてくださる方がいてくださらないと、どうにもならないという姿です。主イエスはこのペトロの姿の中にこそ入っていかれたのです。手を伸ばして、その身を受け止めてくださったのです。この主イエスの中に、彼は自分の存在があることを知り、受け止めたのではないでしょうか。

 信仰の薄いものよ、そうです。これはペトロの不信仰な物語でもあります。この不信仰な弱いペトロを、主イエスが受け止められた物語です。不信仰だからこそ、主イエスもまた気が気でなかったでしょう。このペトロを一身に見つめられ、憐れまれたのです。

 新約聖書にペトロの手紙という書物があります。このペトロが書いたと言われていますし、ペトロから口頭で主イエスの教えを聞いた人が書いたとも言われています。いずれにせよ、ペトロの信仰体験が影響している書物です。その中にこういう言葉があります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(Ⅰペトロ5:7)」いや、ペトロ、あなたはとことん思い煩って、それで湖の中に沈んでいったのではないか。そんなあなたがなぜ思い煩うなと言えるのか。そう言いたくなるかもしれません。しかし、ペトロの言葉は、思い煩うなと言った後に「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるから」だと言います。主は私たちのことを心にかけてくださっている、それは私たちが心配だからです。私たち一人ひとりが本当に大切で、深く愛してくださっているからです。腸が痛むほどに、私たちの苦しみ、悲しみに共感してくださる方だからです。ペトロが強い信仰を持ち、何も怖いものがなく、思い煩うこともなく、湖の上を歩いて主イエスのもとにたどり着くことができたから言えた言葉ではなく、神が、主イエスが自分のことを常に気にかけてくださり、弱い自分の懐にいてくださるという信頼からこのことが言えたのではないでしょうか。「主よ、助けてください」。そういう自分を主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえてくれた。身許に留めてくださった。この体験を彼は生涯忘れることはなかったでしょう。

 みなさん、このペトロは私たち一人ひとりの姿ではないでしょうか。ペトロとは違い、自分の足で主のもとに近づくことができるのでしょうか。そうではなくて、ただ怖さの前に、主よ、助けてくださいと、叫ぶのではないでしょうか。それが私たちの真の姿ではないでしょうか。その私たちを主イエスは心にかけてくださっている神の子として、私たちと共にいてくださるのです。そして、この方は、悪魔の住処であり、死の世界すらもその御手の上に置かれる方であります。そのようにして、私たちの人生を導いて行かれる方なのです。手を伸ばして、私たちを捉えていてくださる方なのです。だから、強くなくていいのです。主よ、助けてくださいと、叫んでいいのです。今日も主はあなたのことを気にかけていてくださるからです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。