2017年9月10日 聖霊降臨後第14主日(関東地区一致祈祷日)の説教「パン屑の恵み」

マタイによる福音書15章21~28節  梁 煕梅 執事

 息子がまだ子どもの頃、ぽろぽろと落としながら食事をすることをよく注意していました。同じことを、今、自分がするようになって、先日アメリカから帰ってきた息子に注意されました。年を取ると食べ物を良くこぼすようになるのですね。

 今日の福音書には、食卓の下にこぼれたパン屑を通して、重い病にかかっている人が癒されるという奇跡が起きています。それは、カナンの一人の女女性を通して起きた奇跡でした。

 彼女は、ユダヤ人からは汚れた民族であると言われていた異邦人でしたし、男性には価値のないと考えられ、数にも入れてもらえない女性でした。

 ところが、今日、その二つの大きな壁が、彼女を通して取り崩されています。それは、食卓の上にあるパンではなく、食卓の下に落ちたパン屑を通して実現します。食卓からこぼれ落ちて、食事が終わればゴミ箱に捨てられるものに彼女は望みをかけ、そこから奇跡が起きたのです。

 わたしは、先週韓国に行ってきました。韓国ルター大学より日本ルーテル教団の宣教についての話を依頼されて、金曜日に帰ってきました。帰りの飛行機の中で久しぶりに日本の新聞を手にとって読んでいたら、朝日新聞の「折々の言葉」の欄にこんな言葉が載っていました。

 「いろんなものにそつなく目配りするより、一つのことをとことん究めるほうが、別領域のものについても正確な判断ができるようになる。絵や音楽、文学や科学も、それぞれの流儀で世界を探求する緻密な努力だから。」

 今日の福音書を黙想している時でしたので、この言葉に深く共感しました。

 歳をとってきて、食べ物を良くこぼすようにもなりましたが、良いこともあります。若い時よりじっとして座っていられるようになりました。というか、じっと一つのことを見つめることの喜びがわかるようになってきたと言った方がいいのかもしれません。以前は、自分の力で奮闘して答えを得ようとしていて、疲れるときが多くありました。しかし今は、時の流れと物事の成り行きをじっと見つめることで、その中に答えがあるということに気づくようになってきたのです。

 具体的には、朝起きて、ほぼ毎日ゆっくり座ります。まだ外は暗いうちに蠟燭をつけて座ると、暗闇の中に包まれている自分を蠟燭の光が照らしてくれていることを感じます。30分~1時間くらい。僅かな時ですが、毎日重ねることでそれが力になります。その力はいろんなことをじっと見つめ、見極める力です。まだ足りないことがたくさんありますが、わたしの力ではなく与えられた力で生きることの身軽さが幸せであるということを知らされています。

 一つのことをじっと見つめるだけでいただく大切なものがあるのです。わたしという一人の人間の中にある、数え切れない欲望や執着、思い煩い。それらが、時には大波になってわたしを襲い、苦しめ、破滅へ持って行こうとするのです。何度もそういうことを経験してきました。そのようなわたしの中のいろいろなものが、静かに座り、主の御言葉を瞑想することによって凪になり、心の平安をもたらしてくれるのです。大きな波が、「黙れ、静まれ!」というイエスさまの一言で凪になり静かになりました。この出来事が、わたしの中で起きるのです。

 カナンの女性は必死でした。彼女は、娘の病気がイエスによってこそ癒されること、ただこの一つのことを必死に求めました。人の言葉や置かれた環境のせいにもせず、出会ったその場で、パン屑に希望をかけることで答えをいただきました。

 彼女は、死にそうになっている娘を病院に連れて行くことすらできない、とても貧しい人かもしれません。自分たちこそ選民と誇るユダヤ人から、神に見捨てられた汚れた民と指差され、数にも入れられない女という、一般社会から隅っこに追いやられたところで生きる人でした。しかし、神の恵み、神の力、神の救いは、この彼女を通して示されているのです。

 マタイによる福音書21章42節にはこのような言葉があります。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

 家を建てる者が捨てた石、隅の親石はイエス・キリストを指します。イエス・キリストは、家を建てる専門家のような立派な人からは、使い道がなく、みすぼらしく、役立たない者のようにされました。ありとあらゆる差別を受け、故郷でもじっとして暮らすことがゆるされず、「マリアの子」、つまり、父親を知らない子として差別され、虐げられました。まるでパン屑のように、です。

 今日、イエスさまと弟子たちと女性との間でいろいろな会話が行き来しています。しかし、わたしたちのために十字架にかかってくださり、わたしたちが生きることを何よりも大切にしてくださったイエスは、食卓の上にあるパンの固まりを通してではなく、食事が終わったら集められてゴミ箱に捨てられるか、犬の餌になるようなパン屑を通して救いをもたらしているのです。人の病を癒し、人に希望を与え、人と人との間の、民族と民族との間の大きな隔てを取り崩し、神さまの大きな力を現してくださっているのです。

 カナンの女性の物語を聞いているわたしたちは、今、どこを、何を見ているのでしょうか。どんなものに自分の望みを置いて生きているのでしょうか。わたしたちだって、あのカナンの女性に負けないほど、現実は、苦しみがあり、悩みがあり、問題だらけの日々です。そのわたしたちは、もしかしたら、食卓の上のパンの固まりを見つめ、そこから希望を描き、それを見つめることにホッとしたりしていないでしょうか。

 しかし、それはユダヤ人のものだとイエスさまははっきりおっしゃっておられます。それは、異邦人には分け与えることのできない、エゴイズムの固まりなのです。それに望みをかける者は、貧しい人を虐げ、他民族を差別し、性差によって人間の尊厳を測ろうとします。もし、わたしたちが、それに望みをかけて、それを通して自分の幸せを保とうとしているのなら、わたしたちは、当時、イエスさまにはむかって、イエスさまを十字架の死へと追いやって行った、ユダヤ人たちと同じ道を辿ろうとしていることになります。

 具体的に、そのようなものはこの世の中にいくらでもあります。お金、名誉、権力…食卓の上のパンの固まりは、経済的な豊かさが人を幸せにするのだと約束するようなものです。しかし、お金があれば、本当に幸せでしょうか。むしろ、お金があればあるほど問題があり、悩みが絶えなくなってくるのではないでしょうか。

 最近、子どもも大人も何と忙しいことでしょう。習い事、仕事、趣味、ボランティア…体が健康であれば少しもじっとしていることがゆるされないような毎日です。時間がない、心の余裕がない、教会に来る暇がない…何のために忙しいのでしょうか。

 一人で静かに座る時間を作りたいと思います。自分の好きな聖句一節だけを持って座ってもいいのです。またはマザー・テレサや聖フランチェスコのような人の言葉を一句もって座ってもいいかもしれません。または、何も持たないで座ってもいいのです。目をつぶって静かなときを保つ。5分でも、10分でも。それは、まるでパン屑のように、まったく何の役にも立たないような時です。しかし、その短い時を重ねることによって、一つのことをじっと見つめることによって、わたしの中のあれこれの波が、高ぶっていた神経の波が凪になり、神の国の平安がわたしを包んでくださる体験が訪れます。それは、この世の経済も、名誉も、地位ももたらすことのできないことです。神に対して死んでいたわたしが甦るという奇跡がわたしの中で起きるようになるのです。

 わたしの中で起きる奇跡の物語、それがわたしの人生を豊かにし、幸せをもたらし、物事の真実をじっと見つめることのできる、素晴らしい力になります。なぜなら、その何でもない短い時の中に、イエスさまが一緒におられるからです。まるで何の役にも立たないと思われる静かな時の中で、イエスさまはわたしと語り合い、何を求めているのか、何をして欲しいのかと、必ず聞いてくださるのです。そのイエスさまとの会話を通して、わたしたちの最も大切なものが、病から癒され暗闇から救い出されて、新しいいのちに回復される奇跡が起きるのです。そして、そのときにわたしたちは、神さまに栄光を返すような人生へと導かれてゆきます。

 何でもないような時の中で、とんでもない神さまの恵みと救いの業を体験できる日々でありますように。皆さまの人生の日々が幸せでありますようにお祈りいたします。