2017年9月17日 聖霊降臨後第15主日「神に選ばれた岩」

マタイによる福音書16章13~20節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の聖書箇所はペトロの信仰告白と言われる箇所で、教会という言葉が出てきます。主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」と言われ、岩と呼ばれたペトロの上に建てられると言われます。それはペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と主イエスに信仰の告白をしたからに他なりませんが、それを告げさせたのは天の父でありました。

 なぜペトロなのか、あの信仰の薄い者よと言われたペトロがなぜ主イエスから岩であるあなたの上に教会を建てると言われたのか。なぜ天の父はこのペトロを選び、彼は主イエスをメシア、神の子として告白をさせたのか。彼の身に何があったのでしょうか。

 私たちは信じて信仰を告白する時、何をどう信じて告白しているのかと、うまく口で言い表せず、戸惑ってしまうことがあるのではないでしょうか。毎週私たちは二ケア信条、または使徒信条を唱えて信仰の告白をします。それは共通の告白です。でも、ひとりひとりが主イエスと出会い、主イエスを告白した時の体験というのは人の数だけあります。人から影響を受けて、信仰を告白した、または信じるようになっていったという人もいます。難しい教理とか神学がわからなくとも、神様が自分に生きていてほしいと願って、様々な働きを通して、自分を導いてくださり、偶然に思えて、実はひとつひとつが神様のご計画の中にある自分の人生に気づかされることもあります。神様が全知全能で偉大で何でもしてくれるから信じるというより、どんな時にもこの自分と関わってくれて、神様のほうから自分と関係を気づいてくださる。褒められる時もあれば怒られる時もあるけれど、自分に寄り添って、自分と関係を結んでくださる。その信頼関係から信仰は生まれるのかもしれません。そして、神様と自分との関係、それに並行して私たち一人ひとりとの関係があります。その集まり、群れが教会です。

 それで今日の福音書で主イエスは、人々は私を何者だと思っているのかと弟子たちに問を投げかけます。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人。いずれも過去にいた偉大な預言者の名前が挙げられます。力のある特別な人物だと人々は思っていたのでしょう。それが噂になって、あのイエスという人物はあの偉大な預言者の生まれ変わりに違いない、そういう期待の声がありました。世間の評判はこうなっておりますと言わんばかりに、弟子たちは答えます。そして、主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と直接弟子たちに問いかけます。わたしを何ものだというのか。イエスキリストを信じているあなたはその主イエスを何者だと思って信じているのか、ひとりひとりにこのように問いかけています。すぐに口を開いたのが、ペトロでした。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。この主イエスを通して神を知ることができた。ここに神様の御業が現れていると言わんばかりに、主イエスに告白をしました。

 誰もがその答えに驚いたことでしょう。そこで主イエスは言われます。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」それは人間ペトロの答えではなく、天の父にそのように答えを示された、ペトロが、神様から選ばれたペトロがそのように告白した。その神の答えを告白することができたあなたは幸いであると言われるのです。ペトロが自分で出した答えではなく、神様から与えられた答えでした。主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」と言われて、このペトロの上に教会を建てると言われます。

 しかしこの直後、今日の福音書の後ですが、彼は主イエスからサタン呼ばわりされ、わたしの邪魔をする者、主イエスの妨げとなる者と言われてしまうのです。(マタイ16:21~28)ペトロは主イエスの妨げとなる岩となるのです。主イエスの受難予告を前にしては、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません・・・たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33~35)とまで言いますが、彼は主イエスの十字架の死を前にして「そんな人は知らない」(マタイ26:74)と言って、主イエスのもとから離れてしまうのです。でもその時、彼は激しく泣いたと言います。主イエスに従うことのできない自分の無力さ、悲しさ、苦しさを負っていくのです。しかし、復活後の主イエスは彼のもとに現れて、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と言って、彼に教会の群れを束ねる牧者としての新しい生き方を与えるのです。

 主イエスがペトロを選ばれ、信仰の告白へと導いたのは、ペトロ自身の力や知恵でもなく、彼が勇敢で、頼りになるからではありませんでした。彼自身は口で言い、行動しようとするものの、いざ目の前の驚異を前にして怖気づいてしまう人物でした。そして激しく泣く人でした。主イエスを愛しているのに、完璧に愛することができず、最後まで従うことができない自分の弱さ、未熟さ、力の無さ。そんな姿であるペトロを神様が選ばれ、彼の上に教会を建て天の国の鍵を授けたのです。

ですから、ペトロが選ばれたのは、彼の完璧な信仰があったからではないのです。主イエスを完全に愛しきることができるという信頼があったからではないのです。神様の方からペトロに関わられ、彼が裏切り、涙を流しつつも、彼が信じて生きていくことの幸いを知ってほしいと願い、失敗だらけで、涙が絶えなくても、神様はその涙を喜びに変えて下さる方であるということを彼に伝えているのではないでしょうか。このペトロの上に教会が建てられ、そして現代の私たちの姿がこのペトロに重なってくるように思えるのです。

 パウロは教会についてたくさん教えていますが、エフェソの信徒への手紙4章11節から16節でこう言っています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」教会に連なる一人ひとりがキリストの体である教会を支え、愛によって真理を語り、愛によって作り上げていくと言います。私たち人間の技が合わさって何かすばらしい働きができ、それで教会が作り上げられていくのではなく、一人一人がキリストと出会い、キリストに愛されていることを知り、失敗を経験しつつも、愛に根ざして、それぞれができる働きをして、互いに補い合っていくのです。信仰の告白はこの愛に根ざす生き方に現されてくるのではないでしょうか。決して順調ではなく、失敗ばかりし、ペトロのように激しく泣くこともあります。教会とは完璧な信仰をもったものの群れではないのです。信じようするが故に、愛そうとするが故に、私たちの涙は絶えないかもしれません。しかし、神様はあのペトロを受け止められたように、私たちの涙を受け入れ、私たちを愛し、私たちに新しい信仰を与えてくださいます。

 詩篇126編にこういう歌があります。「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(126:5~6)」私たちが教会で蒔く福音宣教の種は決して涙のままには終わらないのです。これを神様は本当に不思議なみ業で喜びへと変えられます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」ペトロがそのように告白し、ペトロが体験していった信仰の体験を私たちは引き継いでいます。神様はペトロを始め、私たちの上に教会を建てられます。私たちの涙や弱さ、小ささを受け止め、それを無駄にはなさらず、そこに報いて下さいます。その神様への働きに祈り委ね、感謝するところから私たちの信仰は新しく与えられていくのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。