2017年9月24日 聖霊降臨後第16主日 「命を見出す小ささ」

マタイによる福音書18章1~14節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書の最後に、主イエスは「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と言われ、小さな者に対する神様の大いなる慈しみを私たちに語っています。誰ひとりとして滅ぶことがあってはならない、ことさらに、迷いやすくないがしろにされやすい小さい者が滅びの危機にあるのなら、天の父は全力でその人を助け出す。誰かひとり欠けてでも、その共同体を維持することに意味があるのではなく、むしろ誰か一人でもその共同体から欠けてしまえば、もはやその共同体は共同体ではないと言わんばかりに、主イエスは一人一人が天の父から愛され、尊ばれ、大切にされているのだということを言われます。

主イエスがこのことを話されたのは、現実に小さい者が軽んじられ、小さい者が迷い出ている姿があるからです。小さい者が心から安心して過ごせる場所が見えていないからです。百匹の羊を飼っている羊飼いは、迷い出た一匹の小さな羊に早く自分のもとに帰ってくるようにと待っていたのではなく、自らがその羊を探しに行き、その羊を見つけ、大いに喜びました。おそらくその羊飼いはその羊を抱き抱えて、元の群れに返してあげたのだと思います。この小さな一匹の羊にとっては、ただ同じ仲間の群れがいるところが安心なのではなく、こんなにも自分のことを気にかけて大切にしてくださり、共にいてほしいといって自分のことを受け入れてくれる羊飼いがいてくれるところに真の平安を見出したのかもしれません。

福音書の前半では、この小さな者が子供として描かれています。口語訳聖書では幼子と訳されていますが、当時のユダヤの世界では10才までの子供が幼子と呼ばれていたそうです。口語訳聖書で幼子と訳されているのはそのためでしょう。この子供とは、当時のユダヤ社会では数の内にも入らない社会的弱者でした。主イエスは弟子たちの真ん中に子供を呼び寄せました。それは弟子たちが「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った彼らに対する答えでもあったからです。誰が一番偉いのか、弟子たちの中のランク付け、それは天の国における自分の価値はどれほどなのか知りたいということでしょう。そんな弟子たちに主イエスは、彼らから見れば眼中にない子供を真ん中に立たせて、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われます。「だれが、天の国でいちばん偉いのか」という弟子たちの疑問を愚かであると言って真っ向から拒絶して否定されたのではなく、主イエスは真剣にその問と向き合い、そして真実の答えを彼らに現されたのです。それは、このように子供のように低くされているものが天の国で一番偉いのだと。この偉いという言葉は大きいという意味の言葉です。小さい者に対する大きい者ということですが、この子供のような小さく、低きにあるものが、天の国で一番大きいものであると主イエスは言われたのです。神様の目に大きな存在とされているということを告げられるのです。そして、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と言われ、主イエスを信じて受け入れるものは、このような小さな存在である子供を受け入れるものであり、また逆に言えば、そのような小さな存在である子供を受け入れない者は、主イエスをも受け入れない者であるということです。小さいからと言って、役に立たないからと言って、その人を排除する心は、そのまま神様にも向けられている。あの人は小さくて、自分の役割をしっかりと全うできていない。そんな人はだめだ。そんな人には期待できないから、その人に取って代わる別のふさわしい人を与えてくださいと願うことは、神様の御心を求めているのではなく、自分の願望を追い求め、自己実現に走っているのです。

主イエスは、このことを弟子たちに話されました。弟子たちの姿は今日の教会であります。また教会はキリストの体であります。この教会とは、天の国を地上に表すための器でもあります。どこか遥か彼方にある別次元の理想郷にあるのが天の国ではないのです。キリストがおられるところであり、そのキリストを現していく場が教会なのです。自分の考えを現し、それを実現していく場ではなく、神様の御心を求めて祈り、伝道していく場です。

その教会の姿でもある弟子たちの共同体に、主イエスは一人の子供を受け入れなさいと言っているだけではなく、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできないと言われたのです。弟子であり、教会であるあなたがたが子供のように小さなものとなりなさいと言われるのです。心を入れ替えて子供のようにとは、子供っぽく振る舞いなさいということではなく、子供そのもののように小さなものになりなさいと言われるのです。

先月の26日に、福島で福島教会を中心に近隣の教会の方々といっしょに活動しているキッズケアパーク福島の現地視察に行ってきました。これは東日本大震災の原発事故による放射能の影響で、公園などで安心して遊ぶことのできない子供たちに、遊び場を提供する活動です。毎回様々な場所を借りて、遊び場を提供しています。そこに遊具を運んで会場セッティングをし、来てくれた子供達と遊びます。学生のボランティアの方も多く来てくださっていました。私は2、3歳の男の子と小さい三輪車のような遊具で一緒に遊んでいましたが、その子は最初、1人で漕ぐのを怖がり、私が後ろから押してあげようとしていました。ところが、私がその子の背中を押してあげても全然進みません。そうすると、その子は私に「ここ・・・ここ・・・」とサドルの当たりを指差して、私にそこを押してくれと頼んでいます。私はその子の目線に立てず、ただその子を押してあげればいいとだけ思っていたのかもしれません。その子が何を求め、どうして欲しいのか、私自身がその子と同じところに身を置いて、同じ目線から一緒に遊んであげられればと思いました。その子は自分一人では漕ぐのを怖がりつつも、私が後ろから押してくれることによって、前に進むことができるので、一途にその自分のしてほしいことを願っていたのだと思います。

主イエスは天の父なる神様のことをアッバと呼び、小さな子がパパ、お父ちゃんと呼ぶのと同じように、親しみと信頼を込めて、神様に呼びかけていました。神様と人間とはそれほどに近しく、パパと言われる程に神様は子供である人間一人ひとりを大切に愛しているのだということです。それほどまでに、神様の目には一人一人が値高く、尊い存在であるのだというまなざしを向けておられるのです。小さな子が安心して親を呼び、親のまなざしの中で生かされているのと同じように、その神様のまなざしの中に自分の存在があり、大切にされている。そこに信頼していけばいいのだと主は言われます。それが天の国における偉大さ、あなたの存在の大きさなのです。この世の価値観における自分の偉さ、大きさという意味ではなく、子供のような小さな者であるあなたが天の父なる神様の愛に包まれていることが大きいのだということなのです。

弟子たち、そして教会はキリストにある信仰の共同体であり、そこは小さな者が安心して生きることができる平和の集いです。教会が大きな者たちによって運営されているから、小さいものが保護されているのではないのです。みな等しく小さいものであり、自分が小さなものとされているからこそ、小さな者を受け入れることができるのです。そして、小さいからと言って、その小ささを卑下することではなく、またその小ささを自慢する共同体でもありません。御言葉を通して、神様の目に自分たちは愛され、大切にされている大きな存在であるということに信頼を置いて、共々に赦し合い、支え合い、助けって歩んでいく場であります。けれど時に、教会もまた小さい者を軽んじてしまう共同体になりえます。それが罪であり、つまずきをもたらすものです。そのために教会もまた天の父なる神様の前にあって悔い改めて、心を入れ替えて、向きを変えて、小さなものとされていくのです。アッバ父よと、神様の信頼の内にこのように呼びかけて、天の父なる神様によって大きな存在として大切にされていることを信じて、その存在の内に生きてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。