2017年10月1日 聖霊降臨後第17主日「キリストがおられるところ」

マタイによる福音書18章15~20節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書の終わりの18章20節で主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われています。ただ人の集まるところにいると言われたのではなく、わたしの名によって、主イエスの名を呼び求める者たちの中にいるということです。「その中に」というのはもとの言葉では「真ん中に」という意味です。主イエスは真ん中におられる、誰からも等しく、近いところにおられるのです。

主イエスが共におられるところ、主の名を呼び求める場はまずこの礼拝の時であると言えるでしょう。礼拝は主イエスとの出会いであり、この礼拝に集う真ん中に主イエスは共におられて、私たちひとりひとりを招き、もてなしてくださいます。この礼拝における様々な業は主のみ業であって、私たち人間の業ではないのです。主が共におられるということは、そこに主のみ業が働かれているということでもあります。そのことを願い、信じて私たちは主に祈りを捧げます。他にも、役員会の時、また教会の総会の時など、私が最初に祈りをする時、そこに主が真ん中におられて、私たちの教会活動が主に守られ、支えられることだけを願うのではなく、全ての活動が主のみ業によるものであると信じて、そこに委ねる思いで祈りを捧げます。ですから、私たちは何事も主の御心を求めつつ、祈りながら教会の活動を皆で考えていく必要があるのです。そのためには、主の御言葉に聞いていくことがとても大切なことなのです。

このようにして、私たちは主の名を呼び求める共同体であると言えます。教会という建物があるから教会の群れがあるのではなく、主がそこにおられるから、主に連なる私たちの群れ、交わりが実現し、そこに教会があるのです。だから、私たちがある兄弟姉妹のもとを訪ね、そこで祈りを通して主の名を呼び求める場も教会であると言えるのです。

さて、今日の福音書にはこの教会という言葉が出てきます。福音書の中でこれは数少ない言葉です。今日の18章の前には、先々週の16章13節からのペトロの信仰告白の場面で出てきました。「あなたはペトロ、私はこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と主イエスは言われました。なぜペトロが選ばれたのか、そのことについて私は説教しました。その中で、教会とは決して完璧な信仰を持ったものたちの群れではないと言いました。ペトロのように、主の御心がわからず、度々主イエスから叱られ、ちょっとしたことで動揺し、主イエスのもとから離れようとしてしまう、そんな罪ある者たちの群れであります。ですから、主の名を呼び求める私たちの声は、胸を張った、堂々としたものではないかもしれません。堂々と、「主よ、あなたに従順な私たちの群れと共にいてください」と言えるものではなく、「主よ、あなたのみ前にあって、私たちは小さく、弱いものです。どうぞ、憐れんでください」としか言いようがないのかもしれません。あなたが共にいてくださって、どうぞ何とかしてしてくだい、助けてくださいという小さい声。でもそれが私たちの真実の声であって、主はその声を聞いてくださいます。

ここに完璧な信仰を持ったものたちの群れではなく、罪の現実を担っていく共同体の姿があります。だから、私たちは悔い改めます。悔い改めから始まるのです。そして罪の赦しを主から賜り、新しく生まれて、主と共に新しい歩みを歩んでいくのです。そんな私たちに今日の福音書で主イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」と言われました。相手が自分に罪を犯し、自分に損害を与えた時、私たちはどうするでしょうか。その人の罪を裁くでしょうか。または自分ではなく、その人の罪を公に暴露して、他の者に裁いてもらうでしょうか。主イエスはそのようなことを望まず、「行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われて、その兄弟を裁くのでもなく、またすぐに赦してチャラにするわけでもなく、戒めるようにと教えます。そして、言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。と言われました。得たことになるという「得た」というのは、利益を得るという意味の言葉です。大きな喜びとなるということです。罪を犯した兄弟が罪を告白し、悔い改めて罪赦されることを共に喜ぶのです。

ここで主イエスは罪を犯したその人に注目しています。罪を犯され、そのことによる損害ということには目を向けておられないようです。それは、罪を犯した者の損害の方が深刻であるという思いをもっておられるからでしょう。罪ゆえに滅びの危機にあるその人に目を向けているからです。だから、その人のところに行って忠告し、罪の道からキリストの道へと案内してあげなさいと言われるのです。

このことはまた、自分自身に対しても言えることでしょう。自分が兄弟に対して罪を犯したということです。私は罪を犯していないから、他人の罪に対して忠告できる権限があるというわけではないのです。そのように思える人はいるでしょうか。少なくとも、私はそのように思うことはできません。ヨハネによる福音書8章にある貫通の罪を犯した女性の物語があります。その罪を犯した女性に対して、人々が石を投げようとしたところ、主イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7) と言われ、誰も石を投げることができず、皆立ち去ってしまったというお話です。誰も石を投げることができなかったように、この私も兄弟の罪に対して、石を投げる権限などは全くありません。むしろ、自分が投げられてしまう立場にあるからです。主イエスはその女性が滅ぶことを望まず、故にその女性を赦したように、あなたたちの兄弟が滅ぶことを私は望んでいないと私たちに告げているのではないでしょうか。

この罪というのは、悪いことそのものを指しているわけではありません。そのような道徳的な観念ではなく、罪というのは神様のもとから離れている状態を言います。神様を信じられず、疑うことであります。それは洗礼を受けているキリスト者も同じです。先ほども言いましたが、教会の群れがそのような罪の姿をも映し出しているのです。この離れている出来事を、すぐ前の18章12から14節の迷いでた一匹の羊の物語に重ねております。一匹の羊は羊飼いである飼い主から一番遠くに離れているのです。でも飼い主のほうからその一匹の羊を探し求め、見つけたらその一匹のために喜ぶだろうと言われます。それは神様がその一匹という小さいものですら、滅んでしまうことを望んでいない、それが御心ではないと言われるからです。滅ばずに、救われることを願い、喜んでくださる神様がおられるのです。

だから、私たちは自分自身もそうなのですが、兄弟の罪を忠告するのです。自分がそのような忠告をできる立場にあるからではなく、自分も含めて、あなたが罪において滅ぶことを何よりもまず天の神様が望まれていないからです。そして、この私もあなたが滅んでしまうことを大いに嘆き悲しむ者であるということです。兄弟の罪は決して他人事ではないのです。そのようにして兄弟と共にあって、罪を忠告する時、私たちは主イエスの名を呼び求めます。誠に罪の赦しをもたらし、新しい命を与えてくださる方に委ねるのです。そのことを私たちは望み、兄弟がそのことを受け入れたら、共に大いに喜び合うのです。

あのパウロは、テモテへの手紙Ⅰの中で、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)と言いました。罪人の頭であるということです。頭ですから、他の誰かと比較しようがなく、自分が最も神様から遠ざかっているものであると告白するのです。それは謙遜から来る態度でもなく、また自虐的な態度でもありません。彼は確信しているからです。すぐ前でこう言っているからです。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(Ⅰテモテ1:15)と。だから、どんなに遠ざかってしまっているこの自分に対しても、主は共にいてくださって、罪の赦しをもたらしてくださる。罪を隠す必要はなく、ありのままに神様の前にさらけだして大丈夫なのだと言わんばかりに、彼は主イエスを信じ抜くのです。主はこんな私をも滅んでしまうことを望んではおられない。それほどまでに、深く広い慈しみをこの自分に向けてくださっているのだと。だから、安心して、イエスキリストを通して示されている神様の赦しの愛を受け止めればいいのだと。他の誰かの罪を気にして、自分の罪に怯えるのではなく、ただ主の名を呼び求めて、悔い改めて、主の赦しをいただけばよいのだと。自分はそのようにして神様から生かされ、神様はそんな自分の存在を、あの一匹の羊を見つけた羊飼いのように、大いに受け止めて喜んでくださる方なのだと。

だから、その望みをもってして、兄弟の罪と向き合い、主の赦しに気づくことができるようにと、その兄弟を忠告するのです。自分だけでだめなら、他にもう一人、二人を呼ぶ。それでもだめなら、教会を呼ぶ。教会でもだめなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。と主イエスは言われます。これは見捨てなさいと言っているのではなく、主イエスが異邦人や徴税人に対して示された深い神の愛を思い起こして、その人を神様に委ねて、罪の赦しを祈り願い続けなさいと言われるのです。その人の罪と共に、教会は歩んでいくのです。共に罪の赦しを願うのです。苦しみを共にし、また罪赦される時の喜びを共にするのです。

パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ12章26節から27節でこう言っています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」パウロが教会に生きる者に向けた言葉です。主は私たちの苦しみの声を聞かれ、また喜びの声を聞かれます。そこに主はおられるのです。等しく、真ん中におられるのです。罪人の頭であろうと、主の方から来て下さり、この私を救い、新しい命を得ることができるようにと、その思いをもってして、私たちと共に歩んでくださいます。私たちは兄弟の罪の苦しみを全体の苦しみとし、兄弟の罪の赦しの喜びを全体の喜びとするのです。それがキリストの体である教会というところです。教会とは変わらず、これからもそのようにして歩んでいくのです。わたしたちひとりを救いへと導いてくださる主の御業に祈りつつ、福音の前進に向けて歩んでまいりましょう。キリストはそこにおられます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。