2017年10月15日 聖霊降臨後第19主日 「不公平で寛大な神」

マタイによる福音書20章1~16節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私の実家の近所では、毎年お祭りの季節になると、多くの人が集まり、お神輿を担いでいる人たち、ダシを引いている人たちで道路は賑わっています。私も子供の頃はそのお祭りをとても楽しみにしていました。その楽しみのひとつは、ダシをひいて歩くと、最後のゴール地点で子供たちにお菓子の詰め合わせをひとり一個もらえることでした。お菓子の詰め合わせは、子供にとっては夢であり、宝物そのものです。それがもらえることがとても重要なことなのです。スタート地点からゴール地点までダシをひいて歩くのですが、それはあらかじめルートが決められているのと、スタート地点から歩き続けなくても、ゴール地点に着いた子供たちが全員お菓子をもらえるので、ゴール地点付近でダシが来るのを待って、直前で自分がそのダシにはいって、すぐにお菓子をもらえることもできました。まだ小さくて、体力のなかった私は、母親が時間を見計らって、ゴール地点付近に出しが来るタイミングを教えてくれて、すぐに出かけてダシに合流し、ちょっとだけ歩いて、ゴール地点で真っ先にお菓子をもらって喜んでいました。少し大きくなって、今度はスタート地点から出しを引いて、ゴール地点まで歩いていこうと決めて歩いていくと、思ったよりも距離があって、すごく疲れたことを覚えています。歩いている途中で、途中からダシに加わる子供たちが来て合流し、そしてゴール地点付近で合流する子供も加わって、ゴール地点に到着すると、皆一目散にお菓子を配っている大人のところに走って行って、皆同じお菓子の詰め合わせをもらっていました。自分もお菓子をもらったら、同じものでしたから、何だ、どっからダシをひいて歩いてももらえるお菓子は同じものなのかと思いながら、ゴール付近で合流してお菓子をもらって喜んでいる小さい子の姿を見て、自分も昔はあんな風に喜んでいたんだなと思ったことがありました。その子の姿はかつての自分自身の姿でもありました。

子供にとって、もらえるお菓子は楽しい思い出となりますが、大人になって、働いてもらう給料、賃金は生活がかかってまいります。自分の働きに見合うだけの報酬を受けるのは当然だと思うでしょう。しかし、今日の福音書にあるぶどう園の労働者のたとえ話は、どうも自分の働きにおいて、正当な報酬、賃金がもらえず、自分の働きが正当に評価されていないという印象をもつ不公平且つ理不尽ななお話に思えてなりません。

主イエスは天の国についてたとえを話されています。天の国とは、特定のどこかの場所というものではなくて、神様のご支配とか、または神様の御心が現され、働かれているところです。神の愛そのものと言ってもいいかもしれません。天の国という神の愛とはこういうことですと、主イエスはたとえを用いて話をしているのです。これは日雇い労働者がぶどう園での働きに雇われて、賃金をもらう物語ですが、労働者が雇われる時間のタイミングが複数あるのが特徴として伺えます。

まず気になるのは、このぶどう園の主人の行動です。ぶどう園という農場で予めどれくらいの収益を上げるかを決めて、それを達成させるためにどれだけの労働力が必要なのか、それに見合う人件費をどのくらい支出するのかという計画が全く描かれていないのです。最初は夜明け前に広場に行って、一日につき1デナリオン支払うと言って労働者を雇うわけですが、その後も何回も時間を変えて広場に行き、労働者を雇うのです。広場にいて目に付いた全ての人を雇うわけですから、人件費はものすごくかかるでしょうけれど、そういう計算をしないのです。いったいどれくらいの収益をあげるのかもわかないままに、とにかくこの主人は、広場にいた全ての人に声をかけて、ふさわしい賃金を支払うと約束してその場で雇い、ぶどう園で働かせたのです。

先週の説教で言いましたが、1デナリオンは一日の賃金だと言われています。一日働いてもらえる報酬ですから、当然数時間しか働かない者は、1デナリオンも報酬がないと考えます。夜明け前から雇われて一日中働いていた人たちは、途中からぶどう園に来て働き始めた人たちを見て、彼らは1デナリオンも報酬がもらえないだろうと思っていたでしょう。ぶどう園は時間が経つにつれて、主人に雇われた労働者がどんどんやってきました。そしてようやく終業時間となり、その日の賃金をなんと後から来た人から順に手渡されていきます。そこではいきなり、1デナリオンが支払われました。1時間くらいしか働いていない5時頃から来た人がそれだけの金額をもらえたなら、後の人たち、もう少し長く働いた人たちはもっともらえるだろうと期待します。しかし、夜明け前に来た人でさえも、同じ1デナリオンだったので、彼らは主人に抗議します。なぜ自分たちは同じ扱いを受けるのか。どう考えても長く働いたのは自分たちであり、彼らとの労働時間、労働力は異なるはずだから、それに見合う労働賃金も当然変わってくるはずではないか。同じでは納得がいかないと。しかし、主人は約束を破っておらず、彼らにも同じ1デナリオンを支払ってやりたいという自身の思いを語ります。そして、わたしの気前のよさを妬むのかとさえ言われるのです。

彼らは日雇い労働者ですから、その日の賃金で一日の生活のやりくりをしなくてはなりません。家族がいれば、家族を養わなくてはなりません。ですから、一日の賃金があるかないかということではだいぶ違うのです。雇われなければ、その日の生活は保証されないも同じです。この主人は自分が収益をあげるためではなく、労働者一人一人が養われることを望んでいたのです。誰ひとり路頭に迷うことなく、全ての人が生活できるように、ただその事を願っていたのです。

主人が広場に行ったのは、全部で5回です。時間を分けて何回も行ったのは、満足に仕事につけない労働者がいることを知っていたからでしょう。夜明け前の人と、5時に雇われた人では、12時間近くも差がありますが、それでもまだ労働者がいたのは、5時に雇われた人が言っているように、今まで誰からも雇ってもらえなかったのです。夜明け前から、いろんな広場を転々として、ようやくたどり着いた広場だったのでしょうか。その広場でこの主人に雇われます。終業時間まで残りわずかな時間で雇ったところで、その労働力に対する期待は薄いものでしょう。もう何もやることがなかったのかもしれません。しかし、何かができるから、何かをしてもらえるから、また先に雇った夜明け前の人たちよりも、すばらしい働きができるということからではなく、とにかくあなたがたもぶどう園に来なさいとだけ彼らに声をかけ、彼らを招いたのです。彼らが飢えることなく、路頭に迷うことなく、あなたに生きて欲しいというメッセージを込めて。

そのメッセージは全ての時間に雇われた労働者に告げられています。ぶどう園に雇われた全ての労働者に対してです。主人の見方はそういう見方ですが、労働者の目から見ると、その思いは異なったようです。私たちは自分がどの時間に雇われた労働者であるかを考えるかもしれません。夜明け前に雇われたのであれば、ラッキーだと思い、その日の生活は保証されたと安心して、働き続けることができたでしょう。他の時間帯に雇われた人たちは、雇われた恵みを知りつつも、夜明け前に雇われた人と比べて、報酬は少ないだろうとがっかりするかもしれません。様々な思いがありますが、私たちはこの5つの時間帯に雇われたいずれの労働者の姿にも自分を重ねるのではないでしょうか。

いずれの時間帯の労働者も、主人から声をかけられ、それで初めてぶどう園で働くことができた人たちです。いつ自分が声をかけられるかという保証はないのです。今日は夜明け前に声をかけられても、明日はもっと遅い時間まで待たなくてはいけない、いや一日中待ち続けていても、声をかけらないという可能性もあります。だから、自分がこれだけの働きをしたから、当然あの人よりも報酬は大きいはずだと、自分で自分を評価することはできないのです。自分を雇ってくださったのは、この主人です。皆、この主人に呼ばれて、ぶどう園に集まった者たちなのです。自分がそれだけの働きができるのは、主人の招きの声があったからです。

神の愛はこの招きの声から始まっているのです。皆等しくこの声に招かれているのです。それが夜明け前であるか、3時であるか、5時であるか、自分にはわかりません。自分より前に来る人もいれば、後から来る人もいるでしょう。主人である神様は全ての人に同じ1デナリオンというその日を生きるための命を与えたいのです。それ以上にまさるものはないのです。それ以上に望む必要はないのです。その1デナリオンという恵みがあなたの生を決定づけるのです。

私たちの働きは様々ですが、私たちは等しく神の愛に招かれているのです。夜明け前に雇われた人、9時に雇われた人、12時に雇われた人、3時に雇われた人、5時に雇われた人、それは全て私の姿であり、わたし以外の人の姿でもあるのです。今、神様から呼ばれていることを覚えて、自分にできることをすれば良いのです。そして、主人が1デナリオンを与えて、その人が喜んでいるように、先に神の愛に喜びを覚えて、感謝している人がいるかもしれません。自分も共にその神の愛に喜びを覚えるところで、神の愛は広がっていくのです。あの人よりも、自分のほうが深い神の愛に与る資格があるということではないのです。その思いに固執するところからは神の愛は広がらないのです。

今日もまた、私たち一人一人は神様に招かれています。そして、ひとりひとり様々な働きが与えられているでしょう。自分にできることから始めて、共に助け合い、支えあって、それぞれが神の愛を受け止めて、喜び合い、この神の愛を広めて、そこに生きてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。