2017年10月22日 聖霊降臨後第20主日「神の国の実を結ぶ」

マタイによる福音書21章33~44節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスの時代、多くのぶどう園があるイスラエルでは、不在地主が小作人の農夫たちに土地を貸し、借地料として収穫の一部を納めさせていたそうです。地主がその土地から離れているところに住んでいるので収穫を受け取るために、収穫の時期になったら使いの者を送るのです。今の時代であれば、借地料という請求書を郵送で送るか、メール等で知らせるということでしょう。

今日のたとえ話はその人々の姿を背景にして主イエスは語っているのですが、ここに登場するぶどう園の主人はただ農夫たちに土地を貸し与えたというだけでなく、「垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、」とあるように、準備万端に整えて貸し与えたと言います。環境は整っているので、あとはそこで労働作業に勤しむだけです。彼らはせっせと働いて、収穫の時期に彼らは収穫を得ることができました。そして、その収穫を受け取るために、主人は下僕たちを送りますが、主人の予想に反して、下僕たちは農夫たちに捕らえられ、ある者は袋叩きにされ、ある者は殺されてしまいます。このことが次の収穫の時にも起こりました。

しかし、主人は農夫たちを罰するのではなく、自分の息子を送ります。息子は主人の分身のような存在です。息子を送るということは、主人の意思を息子の姿を通して伝えるということです。その意思とは「息子なら敬ってくれるだろう」ということでした。息子を送れば、さすがに農夫たちもわかってはくれるだろうと。主人は自分の最良のものを彼らに送ってでも、彼らを罰することが目的ではなく、収穫の一部を納めてほしいと思ったのです。しかしまた予想に反して、農夫たちはその息子を見て、「『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」というのです。

たとえ話の内容そのものはここで終わります。そしてこの話を聞いていた人たちに主イエスは問いかけます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」聞いていた人たちは言います。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」と。土地を貸し与えられ、さらには環境まで整えてくれて、そのおかげで収穫の実りを上げて、自分たちは生きていくことができるのに、その恩を仇で返すかのように、次々と下僕たちを殺し、さらには跡取り息子までを殺して、ぶどう園を乗っ取ろうとする、とんでもない悪いやつらだ。あたかも我がものとして独占し、感謝すら併せ持っていない。当然、彼らは主人から罰せられて、ぶどう園から追放されるだろうと。こういうニュアンスで彼らは主イエスに答えたのでしょう。

恩を仇で返す農夫たちに対して、主人は何度も何度も下僕たちを送り続け、最後には愛する息子まで送って、農夫たちに収穫の一部を納めてほしいと伝えます。最初の農夫たちの対応で、主人に対する侮辱と、彼らの危険極まりない態度、姿がそこで明らかにされています。それなのに、その後に送られる下僕たちもそうですが、まして自分の最も大切で、愛する息子まで送るでしょうか。そこまでして収穫に拘るのでしょうか。主人は収穫に拘っていたというより、この農夫たちとの関係、関わりについて、拘りをもっていたのだと思います。それは最初に、ただ土地を貸し与えたというだけでなく、準備万端に整えて、彼ら農夫たちがそこで安心して働き、収穫を得て、それで生きていくことができるようにと、その思いを込めているのではないでしょうか。そこに拘りをもっているのではないかと思います。その収穫の一部を主人に納めることによって、主人によって命を与えられ、その命を喜び、主人と一緒に歩んでいってほしいという思いが込められているのです。愛する息子を送ってでも、その主人の思いを知って欲しかったのではないでしょうか。

そんな態度をとる農夫たちの行く末を、人々が「ほかの農夫たちに貸す」と言っているように、そこでそのぶどう園が自分ものではないということがはっきりさせられるのです。我が物顔で自分のもののように振舞っていたものが、本当は自分のものではなく、ひとにぎりの土でさえ、自分ではどうにもできないものであるということがわかるのです。

そのように答えた人々ですが、この人たちは具体的に誰だったのかということがこの後に書かれています。21章45節に「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。」とあるように、この農夫たちは祭司長たちやファリサイ派というユダヤの宗教指導者たちを含むユダヤ人たちであると言います。ならば、ぶどう園を作った主人とは神様であり、下僕たちは神様の御心を伝えに来た預言者たちであり、最後に登場する息子とはイエスキリストのことを表します。ぶどう園はイスラエルであり、神の民であるユダヤ人社会そのものと言えますが、その真の所有者は言うまでもなく、それを作られた神様です。

息子がぶどう園の外にほうり出されて殺されたというのは、十字架に付けられて、殺されたということです。相続財産を自分たちものにしてしまおうという魂胆は、言ってみれば、ぶどう園という土地、その領域における様々な権限や権威を実質自分たちが支配してしまおうということです。主人という神様はおり、このぶどう園の所有者ですが、そのぶどう園の権限は実質自分たちにあるから、自分たちの経営の仕方に他の人も従ってもらうということです。自分たちのやり方は主人の意思であるが如く、自分たちが教え、実践することが神様の律法の掟であると思い、それは神様ではなく、自分たちが中心となっているということです。

そんな自分勝手な農夫たちのところにいよいよ主人が現れて、彼らを罰せられる時がきたと人々は予測しますが、主イエスはそのようには話されないのです。彼らの答えに対して、主イエスは42節でこう言われました。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
これは詩篇118編22節、23節の言葉です。家を建てる者の捨てた石とは、家を建てるのに必要のない石、役にたたないもので、家を支えるのに必要のないものです。でも、それが逆に家を根本から支えるための隅の親石、つまり、かしら石となったといいます。家を建てるもの、職人はその石では家を支えられない、家を活かすことができないと判断して、石を捨てます。その石は家を活かすことのできない死んだ石です。誰もがそう思ったのです。ところが、その捨てた石から、家を活かす命の石が生まれるというのです。それが隅の親石となったということです。

主イエスの十字架の死は、この捨てた石に表されています。また、この捨てた石は、ぶどう園の外にほうり出して殺された息子の姿です。どうして息子は殺されたのか、農夫たちが自分の欲望のためにしたことでありますが、それはこの息子を主人から農夫たちのもとに送ったからです。なぜ送ったか、息子ならば敬ってくれる、わかってくれるだろうという農夫たちへの思いを込めているからです。農夫たちとの関わりを持つということを大切にし、農夫たちを愛しているからです。だから息子まで送ったのです。結局息子は無残にも殺されてしまい、捨てられた石のように主イエスは十字架の死を遂げるのですが、その石が隅の親石となって新しい命が芽生えたように、主イエスは十字架の死から復活して新しい命のありかを私たちに示されるのです。

そして43節で「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」と主イエスは言われます。ぶどう園とは言われず、神の国と言われます。あなたたちから取り上げられるとあるように、あなたたち、すなわち神の民であるユダヤ人たちから取り上げると言うのです。この後の使徒言行録の時代を見れば分かりますが、パウロなどの使徒の働きを通して、異邦人への伝道が活発になり、異邦人が洗礼を受けて、神の民となり、たくさんの教会が建てられていきます。あたかも神の民はユダヤ人から取り上げられて、異邦人に渡ってしまったと理解できます。ユダヤ人はだめだったから、異邦人が神の民となる資格がある。主イエスは単純にそのように行っておられるのでしょうか。そして、ふさわしい実を結ぶ民族とはだれを指すのでしょうか。

ここでいう神の国とは、ユダヤ人に与えられた古いぶどう園そのものを指すのではなく、新しく命を与えられて作られた世界です。それは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」死から命が芽生えた新しい世界です。主イエスの十字架の死と復活の命を通して現されている世界です。この世界に生きるものが神の国の実を結ぶ民族です。ユダヤ人というひとつの限定された民ではなく、主イエスの命に生きるものなのです。

ユダヤ人がだめだったから、他の人に資格があるということではなく、むしろユダヤ人だけでなく、この私たちもまたあの農夫たちの姿と重なるように思えます。主人が準備万端して整えてくれた環境を忘れて、自分の力で成果を発揮して実りを結ぶことができている。それを自分勝手に奪ったり、捨てたりする。隣人に対してもそのようなことをして、自分のいいように用いている。そんな姿があるように思えます。

しかし、ぶどう園の主人は、常に農夫たちに与え続けてきました。下僕が殺されても与えました。さらに息子ですら送って殺されてしまいますが、その捨てられた息子の死から、新しい命が宿る世界を私たちに与えてくれました。だから、わたしたちもまた、この新しい神の国を前にして、新しく生まれるのです。ぶどう園を取り上げて、滅ぼして御終いではないのです。わたしたち自身が、今主イエスによって新しく生まれ、新しい命のもとに生きていく、ふさわしい実を結ぶ歩みへと歩んでいくのです。

マザーテレサの言葉から知ったのですが、ケント・M・キースという人が逆説の10ヶ条と言われる「それでも人を愛しなさい」ということを言っています。こういう内容です。

「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行ないなさい。目的を達しようとするとき、邪魔を立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの最良のものを、世に与えなさい。けり返されるかもしれません。でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。最後に振り返ると、あなたにもわかるはず。結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです。」

し続け、やり遂げなさいという言葉が繰り返されています。ぶどう園の主人である神様は、農夫であるユダヤ人、いやユダヤ人だけでなく、私たちひとりひとりに対して、与え続け、戒め、赦し続けて来られました。そして今神様はイエスキリストという最良の賜物を私たちに与えてくださり、私たちが拒絶して捨てた十字架の死から、新しい復活の命を顕にし、この命に生きるようにと今再び、新しく招いております。「結局は、全てあなたと内なる神との間のこと」、そう、これは神様と私たちの関係、約束であり、それも最終的には裁くことではなく、新しい命に与り、新しく神様との関係を構築していくために計画されている愛の御業の出来事です。

私たちが捨てたところから、隅の親石となって、真の人生の土台となってくださった主イエスの命の内に信頼して感謝し、私たちは自分たちのできることをし続け、やり遂げていくのです。邪魔をされ、けり返され、好意を踏みにじられ、私たちが捨てたように、私たちも捨てられることがあるでしょう。でも、神の国の実はそこから実るのです。私たちが実らせるのではなく、ぶどう園というこの世界全体を造られ、被造物が生きていけるようにと整えてくださった神様が実らせてくださるからです。そのようにしてくださるのは、神様が私たちを愛によって造り、造られた後も、今も、後も、罪を犯しても、それでも愛し続けてくださっているからです。だから、私たちは安心して、神様が与えてくださったこの世界で、自分のなすべきことをしていけば良いのです。神の国の実がそこで明らかな形となって実ることでしょう。その収穫の喜びを神様と共に喜び祝いましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。