2017年11月5日 全聖徒主日「キリストの愛にとどまりなさい」

ヨハネによる福音書15章1~17節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝にようこそおいでくださいました。私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、1年に一回、このように皆で集まって、礼拝の時を持っております。そして、私たちは先に召された故人を供養し、故人の平安を求め祈るためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今この礼拝に招かれています。それはまた、生前のこの地上でのご生涯もまた、キリストと共にあって、神様の恵みの内に歩まれたことを思い起こす時であるからです。

先に召された方について、使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節でこう言っています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されているのです。死が全ての終わりではなく、その死を超えた復活の命という始まりを神様はイエスキリストの十字架と復活を通して明らかにされました。死と命の問いに対する私たちの疑問に対する神様の答えは、死を通って示された復活の命でした。神様はそのように今の私たちの命だけではなく、明日以降の死を超えた未来にある命をも備えてくださっているのです。

そこで今日の聖書の言葉では、この命を与えてくださるキリストに繋がっていなさいと、有名なぶどうの木のたとえ話を通して、私たちに教えています。5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、わたしたちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結び、生きることができる。木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。主イエスはこのたとえを通して、命のありかを私たちに示しておられます。ただ漠然と死と命の話をされているのではないのです。この私につながることにおける命のありかについて話されているのです。人の生死を握っているには、枝自身ではなく、木の幹であります。自分自身の死も命も、自分自身でコントロールすることはできませんから、この自分の命もまた、自分で得ることができるものではなく、与えられ、必要な養分を頂いて、命を生かしていくことができるのです。

この前の箇所で、主イエスはご自身のことを「私は復活であり、命である」(ヨハネ11:25)と言われています。復活、命はあるとただ言われたのではなく、私は、と、ご自身のことを強調していっておられます。今日の福音書も「わたしはぶどうの木である」と、私はと言っています。ですから、復活も命もこのキリストに根拠があるのであって、私たちの考えや理解のうちに証明できることではないのです。だから、この命のありかである私に繋がることによって、あなたがたも命を得ることができると言われるのです。

このたとえ話はわかりやすく、多くの人に愛されている箇所でありましょう。ただ、実はこのたとえ話を含むヨハネ福音書の13章から16章までは主イエスの告別の説教だと言われています。弟子たちに語られた遺言です。冒頭の13章1節にはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」父のもとへ移るというのが、十字架にかかって死ぬことを示していますが、弟子たちを愛し抜いた、弟子たちへの愛を貫いたと言います。今日の福音書でも9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と主イエスは言われます。留まるというのも、繋がるということです。主イエスを愛して信じなさいと言われる前に、まずあなたがたを愛しているこの私の愛に留まりなさい、つながっていなさいと言われるのです。でも、この後弟子たちは、主イエスが捕まり、十字架にかけられてしまう時に、怖くなって、逃げ出してしまいます。裏切ってしまう弟子もいました。弟子たちの弱さという面も伺えますが、死を前にして、死が恐ろしくなった姿をそのままに表しているのだと思います。

主イエスは死における私たちの弱さ、もろさを十分に知っています。わたしにつながっていれば大丈夫なのに、なぜあなたがたは離れていこうとするのか。なぜわからないのか。ダメな人たちだと思われていたのではないのです。むしろわかりきっていたことなのです。だから、弟子たちの姿は私たちの姿と重なります。死の不安、死の出来事からは避けて通りたいというのが私たちの本音であるということを。しかし、「私は復活であり、命である」。この主イエスの言葉は既に十字架の死を含んでいる言葉です。主イエスの命を与える愛の約束の中には、十字架の死が含まれているのです。だから、私たちがいずれ迎える死の事実を明らかにしているのです。主イエスは死の事実を無視して、復活の命に目を向けなさいとは言われません。死の事実を通して、自分の死を覚えて、今の自分の命の歩みに目を向けなさいと示されるのです。この死と命の狭間に生きる私たちに主イエスは「わたしの愛に留まりなさい」と言われました。死も命も、どちらの領域においても、キリストの愛の内にあって、あなたたちは決して一人ではない、孤独ではないと約束してくださっているのです。

パウロはローマの信徒への手紙8章35節から39節でこういうことも言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35~39)死が決して怖くない、不安ではないと言っていません。怖いけれど、その先にある命についてパウロは確信してこう言っているのでしょう。死ですら、キリストの愛から引き離されることはない。キリストの愛がその人を引き止めてくださっていと信じるところに、キリストと共に生きている召天者の姿があるのです。このキリストの愛は十字架の死と復活によって明らかになりました。

ですから、皆さん。私たちはこの復活であり、命のぶどうの木である主イエスキリストに繋がる枝であり、このキリストに繋がる枝は先に召された召天者も繋がっているのです。キリストの愛によって私たちは繋がることができ、それは先に召された方と、今この地上を生きる私たちの繋がりをも結びつけるものであります。命の主であるキリストによって、私たちは今も愛する故人と結ばれているのです。だから、私たちは死後の世界を心配したり、故人を供養したりする必要はないのです。死ですら、キリストの愛の支配下にあって、キリストの及ばないところはないからです。ひとりひとりの召天者がこのキリストの内に留まっていると信じて、この命を与えてくださるキリストに委ね、今を生きているわたしたちひとりひとりもまた、このキリストが与えてくださっている命に信頼して、生きてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。