2017年11月12日 聖霊降臨後第23主日「最後に残るもの」

マタイによる福音書22章34~40節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

一人の律法の専門家が「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問します。私たちの周りには、たくさんの掟、守らなくてはいけないルールがあります。そのたくさんある掟のなかで、最も重要な掟は何ですかと聞かれることがあるでしょう。ここで言われる最も重要な掟とは、優先順位をつけて、この一番大切な掟をとにかく最優先にして守り、あとは二の次、三の次にすればいいという意味ではなく、この掟全体の根本を成すもの、本質を表すもの、その掟のアイデンティティとなるものは何かということです。その軸となり、土台となるものから、掟全体を見つめていくのです。

37節から主イエスの答えが記されています。それは神様を愛し、隣人を愛することであると言います。最後の40節で律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。と言います。律法全体と預言者というのは、旧約聖書全体を意味します。旧約聖書に示された神様の愛の約束です。ユダヤ人の人生、生活、社会の根本を成す旧約聖書の本質は、神様と隣人への愛であると。この愛の眼差しから、律法全体を見つめ、この律法に従って生きていくということです。

愛するということが言われていますが、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ13章でこう言います。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」そして最後には「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と言います。有名な愛の賛歌と言われる箇所で、結婚式で読まれることが多いのですが、愛がなければ、愛は滅びない、最も大いなるものは愛であると、愛がすべての根本をなすものであると言います。ヨハネの手紙には神は愛であるとあります。(ヨハネⅠ4:8)そうすると、ここの愛という言葉を神、またはキリストと言い換えて読むことも可能でしょう。

この言葉を書いたパウロですが、すぐ前に彼はこれを最高の道であると言い、(12:31)掟とは書いていません。掟ということをないがしろにしているのではなく、これは道なんだと、これ以上にすばらしい道、人生の歩みがあるだろうかと言います。これが私の人生の進路、道はないと言っているかのように、全ての道を形作っているのはこれであると言うのです。

キリスト教のことをキリストの道と言う人がいます。キリスト教にはキリストの道が顕にされています。ただ道徳的にすばらしい教えの内容が書かれているのではなく、その教えを実現し、その道を行かれ、その道を生き抜いたキリストの姿が描かれているのです。だから、キリスト教は言葉の内容に重点が置かれているというよりは、その言葉を実現し、その道を明らかにされたもの、神であるキリストの後に従っていくことを大切にしていると言えます。キリストが語り、キリストが実現し、キリストの道を信じて歩んでいくことを教えている宗教であると言えるでしょう。そして、キリストは愛でありますから、このキリストの道とはパウロの言う最高の道であり、キリストによって実現される愛の道であると言えるでしょう。

このキリストの道が愛の道として、愛を軸にしている掟として、私たちに語られています。律法の中でとありますが、この律法とは実に613の規定があるようです。宗教的なものから、社会倫理、生活規範など、様々なジャンルに渡って細かく規定されているのが律法です。その613ある規定の中で最も重要な掟は何ですかと質問され、それが愛することである言われ、愛の掟であると主イエスは答えられたのです。

ところで、皆さんも気になったかもしれませんが、この質問をした人は誰であったのかということです。それはこの律法の専門家であり、ファリサイ派と言われる人でした。人々に律法を教え、自分は熱心にこの律法に生きている人ですから、答えを得るために質問したということではありません。答えはもちろん自分でもっているわけですから。しかもここには、「イエスを試そうとして尋ねた。」とあります。試すというのは、罠にかけるという意味の言葉です。ようするに、主イエスを罠にかけ、陥れようとするということです。だから質問ではなく、企みです。本当にこの人は律法がどういう教えで内容のものかわかっているのか、試してみよう。もし見当違いな答えを言ったら、即座に非難してやろうという魂胆です。そして彼らは律法の専門家ですから、自分たちの解釈と異なる答えは認めないのです。いわば、自分たちの解釈を軸にした律法の教え、その答えを求めているのです。自分たちの教えこそが正しいという自負がありました。

今主イエスはエルサレムにいます。前の章から彼らと議論し、イエスに腹をたてて、主イエスを殺して亡き者にしてやろうという人がたくさんいました。その理由は自分たちの教えを守らず、自分たちこそ神様の掟から遠ざかって生きていると主イエスからたとえ話を通じて言われていたからです。この後、主イエスはその人々の手によって捕まり、十字架にかけられて殺されてしまいます。それがこのエルサレムという場なのです。

律法という掟を、彼らは自分たちの眼差しから見つめています。神様を信じ、愛し、熱心に仕えている自分たちこそ、律法の生き証人であると自負していたでしょう。逆に律法を守らない罪人は厳しく非難し、彼らとは交流を禁じていました。掟を守れないあいつらとは一緒に生きて関わることなどできない。自分たちにも悪い影響を及ぼしてしまう。そのように区別していました。ファリサイというのは、分離するという言葉から来ています。区別して分離しているのです。掟を守っている自分たちこそが正しい神様の民であり、掟を守っていない罪人たちは神様から裁かれるものたちであると。

けれど、主イエスはこの掟を愛の眼差しから見つめ、その愛の掟を与えられている者たちを区別していないのです。まず最初に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 と言われます。無論、ファリサイ派の人も十分に熟知している内容で、そこに生きていました。精神を尽くすというのは、命をつくすという意味でもあります。全身全霊を込めて、神様を愛する。具体的に何かをしたから神様を愛したことになるということではなく、命を尽くす、自分の存在そのものが神様への愛に生きているということを言います。生き方そのものが神様への愛に向けられているということです。そして、続けてこう言われます。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」第二と言われますが、これと同じように重要であるということです。だから同時に重要であり、切り離せないものです。ひとつであるということです。その内容は単に隣人を愛しなさいとは言われません。自分のようにと言います。ですから、自分を愛するように隣人を愛しなさいと言われるのです。自分が重要なのです。ですから、神様への愛、自分への愛、隣人への愛ということがひとつであり、これが最も重要な掟であると主イエスは言われるのです。

自分を愛すると聞きますと、自己愛ということを思い浮かべ、自分優先、自分の保身ということを考えてしまうかもしれません。何だかんだで、人間自分が可愛いのだから、自分をまず大切にするべきではないか。しかし、先程も言いましたが、これはただ自己愛だけを推奨しているのではなく、神様への愛と隣人への愛ということと切り離せないものであり、ひとつなのです。

しかし、自分優先、自分の保身を考える自己愛というのは、自分の思い、姿と切り離せないものです。人を愛することの大切さを聞いたとき、私たちは人を愛することの難しさ、苦悩に直面します。大切な教えであるということは百も承知していますが、それをすることができない。何だかんだで自分のことを優先し、相手のためを思って言ってあげていると言いながら、自分の正しさを押し付けて、相手を愛するどころか、傷つけてしまうこともあります。人を愛しなさいと聞いたとき、私は人を愛することができない自分に出会うのかもしれません。だから、神様を愛することもできず、罪ある自分の姿だけが映っているのです。

「隣人を自分のように愛しなさい。」。この掟を通して、愛せない自分の姿に気づかされ、自分の醜い部分が明らかになります。掟を守れない自分の姿があります。けれど、主イエスは自分への愛を、神様への愛と隣人への愛ということとひとつにして私たちに教えています。愛することができない、愛に生きることができない自分を愛するのです。それは自分にわがままになり、相手のわがままをも受け止めなさいということではないのです。そんな自分を卑下するのではなく、そんな自分を愛して大切にしなさいということは、そんな自分自身が愛され、受け止められている真実に気づきなさいということを私たちに教えているのです。自分を愛するということは自己愛を押し付けるのではなく、愛することができない自分が愛され、生かされ、受け止められていることを受け止め、そこに感謝して生きていくところから生まれてくるのではないでしょうか。自分が何かをしたからとか、ということではなく、自分の存在そのものがこの世界に与えられ、生きているということ。その自分を知り、見つめ、受け止めていくところから、神様へ愛、自分への愛、隣人への愛が生まれてくるのです。

そんな自分に命を与えてくださった方は、インマヌエル「神は我らと共におられる」というイエスキリストです。ただ私たちに命が与えられただけではなく、この命を、ひとりひとりの命を生かすために、私たちと共にいて、愛し、関係を築いて下さる方として、さらにご自身も私たちと同じ姿となって、私たちとの関わりをもってくださる方です。私たちを区別するためではなく、あなたが愛され、受け止められていることを知ってほしいということを伝えるために、キリストは私たちのもとにきてくださいました。

さきほど、キリストの道ということを言いました。それはパウロが言う最高の道であり、愛の道です。この掟を私たちはキリストの生涯、キリストが歩まれた道から見ることができます。この道を自分は歩いていく資格があるから、掟を守っていく自信があるから歩んでいけるのではないのです。私たちはキリストが歩んでくださる愛の道の途上で、キリストと出会ったのです。あなたの人生の途上にキリストの方から来てくださるのです。それはもはや時代も、人種も関係ありません。すべての人の途上に、キリストの道は開かれていくのです。キリストとの出会いから自分への愛を受け止め、私たちは最高の道である神様への愛、隣人への愛の掟の中に、自分一人ではなく、キリストと共に歩んでいくのです。このキリストと共に私たちは神を愛し、隣人を愛する生き方へと常に招かれているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。