2017年11月19日 聖霊降臨後第24主日「あなたのともし火」

マタイによる福音書25章1~13節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

2017年という年も終わりに近づいております。私たちは1年の終わりに当たって、今年一年間の自分の歩み、活動、自分に起こった出来事を振り返るかもしれませんが、同時に1年経ったということは、一年歳をとったということでして、死に近づいているということを受け止めるものです。人生の終わりに近づきつつあることを知り、人生には終わりがあることを改めて思い知らされます。

今、世の中も教会もクリスマスの準備で大忙しですが、教会の暦は主イエスの到来を待ち望むアドベントから始まり、今年は12月3日からです。ですから、今私たちは教会暦の終わりの時を迎えようとしています。終わりの時について考え、祈ります。今日の福音書に「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」という主イエスの言葉がありますが、その日、その時とは、終わりのこと、終末のことを指し示す言葉です。あなたがたはそれを知らない、つまり私たちにはその日、その時がいつ来るかわからない、神のご計画があり、時をも支配する神の御心が示されています。

この25章の前後には世の終わりについて、主イエスは語っておられます。前の24章で「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(24:2)と、壮麗なエルサレム神殿の崩壊から世の終わりについて語り始め、29節からは「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(24:29~31)と言われます。私たちには想像もつかないような天変地異が起こるのかしれませんが、太陽にしろ、月にしろ、星にしろ、これらの神様が作られたものが終わりを迎えるのです。その中に私たち人間も入っています。私たちの寿命もいずれは尽き果てる。終わりを迎えるということは悲しみや苦しみを伴うものですが、ここには終わりが全てではないということが告げられています。人の子が来るというのです。人の子、つまりキリストがその時、終わりを迎えた時に来られるのです。終わりを迎えて全てが終わるのではなく、いずれ来られるキリストの支配、その命の中に生きていく新しい始まりへと続いているわけです。終わりを迎えるということは、この再臨のキリストと出会い、新しい命に生きていく始まりを意味します。これは単にいずれ訪れるかもしれない不確かな未来の出来事を語っているのではなく、主は必ず来られるという将来への望みを私たちに告げています。この望みを抱いて、私たちは終わりに近づきつつある時を歩んでいくのです。

そこで主イエスは目を覚ましていなさいと言われます。終わりの時が来て、主は必ず来られるから、目を覚まして待ち続けなさいというのです。目を覚ますとはどういうことでしょうか。今日の10人の譬え話の中でも主イエスはこのことについて語っています。

これは結婚式の物語です。結婚という喜びが満ち溢れている出来事です。ここに登場する花婿に仕える10人のおとめたちも、この喜びを共にしていたことでしょう。花婿を出迎えるために、彼女たちはともし火を準備します。全員準備をするのですが、ここにふたつのグルーブが登場します。予備の油を用意しておく賢い5人のおとめと、油を用意しない愚かな5人のおとめです。全員準備を終えて、いざ花婿を迎えようとしますが、花婿が遅れてくることがわかります。待ち続けている内にあたりは暗くなり始め、おとめたちは眠り込んでします。真夜中になって突然、花婿が到着するという声を聞き、全員起きてともし火を準備します。この時、予備の油をもっていなかった愚かなおとめたちは、油を買いに出かけますが、その間に花婿は到着し、彼女たちは花婿を迎えることができず、結婚披露宴の席に入ることができませんでした。

この花婿とは、キリストのことを現していますが、そうだとすれば、愚かなおとめたちが可哀想に思えるかもしれません。また、賢いおとめたちも、なぜ油を彼女たちに分けてあげなかったのか。自分の分しかなかったからできなかったとも言えるかもしれませんが、この油を持つか持たないによって、おとめたちの結末は大きく異なります。ただ、主イエスは目を覚ましていなさいと言いますが、おとめたちは花婿が来るのをずっと起き続けて待っていたのではないのです。賢いおとめたちも眠ってしまったのです。全員寝てしまったのです。寝てはいるけれど、花婿が来る姿勢を持ち続けていたかどうかということが分かれ目になりました。賢いおとめたちは予備の油を用意していました。いつ消えても、すぐに取り替えることができるようにと、彼女たちの用意周到さが、彼女たちの賢さなのでしょうか。常に準備万端にして、花婿を、主イエスをお迎えする用意をしておきなさいと、緊張感をもって、神経質に私たちにそう教えているのでしょうか。目を覚ましているとはそういうことなのでしょうか。

この賢いという言葉ですが、口語訳聖書では思慮深いと訳されています。辞書で調べると、理解力の鋭いとか、物分りのよい、という意味の言葉です。常に緊張感をもって、用意周到に備えておくという手際のよさではなく、何をどのようにして見つめているのかということが問われているように思えます。ある人は、これを開かれた目をもつことだと言われました。常に起きていて、見ていなさいというのではなく、目が開かれていなさい、花婿を迎えることの理解力を持つ。それがたとえ困難の中にあろうと、死に近づきつつあっても、見るべきものを見ているか、そこに望みを抱くことができるかどうか、その理解力のある開かれた目を持つ賢さに生き続けることが、主イエスが言われる目を覚ましていなさいということです。

そのために賢いおとめたちは予備の油をもっていました。それは他人に分けることができないものでした、自分にしかともすことができない油です。眠ることはあっても、自分の目が開かれているかどうかということにかかってくるのであって、それを他人に分け与えることができないのです。

物語の結末を聞くと、わたしたちは賢いおとめであろうか、愚かなおとめであろうかと、不安な気持ちになるかもしれません。常に予備の油を準備している理解力のある開かれた目を持っているだろうかと。そして、自分が持っているともし火はいずれ消えます。ごうごうと燃えている時は、消えることの心配をしませんが、消えかかってくると、不安に陥いります。それを絶やさないための油を自分は持っているだろうかと。そのために何か特別なことをしなくてはいけないと感じてしまうものです。

しかし、主イエスは、今燃えているともし火がいずれ消える日が来るかのごとく、その日、その時がいずれくることも同時に言われているのです。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」私たちの人生のともし火も、目に見えているものはいずれ終わりを迎えるのと同じように、消える日が来ます。歳をとり、死が近づき、できていたことができなくなってくる。まるでともし火が消えかかってきそうな、自分の姿に気づかされます。何か特別なことをしようとも、限界があるのです。

予備の油をもつということは、消えかかるともし火を知りながら、また新たにともし火がともされるという新しい明るさ、光を知ることです。自分の力で、自分のともし火をともし、予備の油をもつことはできないのです。では、どのようにして、私たちは油をもつことができるのでしょうか。

この後の26章からは主イエスの受難と十字架の死の出来事が記されています。主イエスはその道を脇にそれることなく、真っ直ぐに向かわれます。それが目的であるかのごとく、いやその道が神のご計画の内にある目的の道なのです。それは何のためか、私たちと神様を結びつけるための愛の御業であります。自分で予備の油をもち、花婿を迎えることができない私たちを裁くためではなく、自らが十字架の死を通して、神様への道を開いてくださるのです。そして復活を通して、その先にある命のありかを示してくださいました。それが神様の私たちへの答えであり、目的であります。キリストの十字架と復活を通して、神様は私たちを見捨てず、私たちとの関係を望み、命を与えてくださる方であるということが既に明らかにされているのです。今目に見えるともし火が、苦難を体験し、死の近づきを受け止め、消えかかっていると感じるかもしれません。しかし、そのともし火をともす油は、キリストが備えてくださるのです。キリストが私たちにともしてくださる命の光となり、それがあなたのともし火となって、私たちはその恵みの内に、歩むことができるのです。

その命の道は、キリストにおいて明らかにされました。いずれ明らかになるかもしれないという不確かな出来事ではなく、それは既に起こされていることなのです。このキリストへの信頼の内に、私たちは油を備えて、ともし火をともすことができるのです。

目を覚ましていなさい。終わりに近づきつつある私たちに神様は、終わりの答えを明確にしてくださいました。それは完全な滅びではなく、神の命にあなたが生きていくという新しさ生き方です。それは必ず実現する。その望みに生きなさいという神様からの招きの声です。

苦難が起こり、悲しみがあり、苦しみがあり、最後に終わりがあります。わたしたちのともし火が消え入りそうな出来事が続くかもしれません。その只中にあって、神様は同時に私たちに命の道を備えておられます。その神様の約束に目が見開かれていくように。その信頼の内に、終わりの時を共に歩み、キリストが備えて下さるともし火を、あなたにしか灯せない命のともし火をともして、歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。