2017年11月26日 聖霊降臨後最終主日「最も小さい者の一人」

マタイによる福音書25章31~46節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は聖霊降臨後最終主日の礼拝、教会暦でいう「大晦日」に当たります。先週の日課であります「10人のおとめの譬え話」に引き続いて、私たちは今日も聖書に記された「終末の出来事」について、御言葉を聞いていくのでありますが、本日の福音は「最後の審判」と言われるキリストの再臨を描いた箇所であります。終末の徴とされる迫害や戦争、天変地異や天体の動きなど、そういうことが描かれているのではなく、世界の終わりにおける神様の審判が人間に下される時が来るということであります。

「最後の審判」。バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれているミケランジェロのフレスコ画を思い浮かべた方が多くいるでしょう。そこには無数の天使が描かれ、またキリストを中心に天国、地獄に引きずり落とされている人々の姿が描かれています。私は実際に現物を見たことがあるわけではないのですが、そこに描かれているイエスキリストの姿からは、福音書に記されているような人々に寄り添い、多くの奇跡を行って人々の病を癒し、福音を宣べ伝えたあの愛と優しさに満ちた神様の御子としての姿と比べて、大きなギャップを感じざるを得ないという感傷にひたれる思いであります。

今やクリスチャン、ノンクリスチャンに限らず、世界中の多くの人々に知られているこの「最後の審判」でありますが、一般的に知られている情報から離れて、聖書に記されている福音としての「最後の審判」の御言葉から、大切な神様からのメッセージを受け取っていきたいと思います。

今日の福音は、いきなり再臨のキリストが登場する背景を伝えています。終末の訪れが私たち人間には予測できないことであります。再臨のキリストは全世界の人間をご自身の前に集められ、そして、羊飼いが羊と山羊を分けるようにという譬えを用いながら、人々をより分けます。右側に分けられた人々は、永遠の命に与り、神の国を受け継ぐという救いが約束されていますが、左側に分けられた人々は永遠の罰に与り、永遠の火に投げ込まれるという滅びの約束が成されています。その基準は、聖書の言葉を借りますと、この王なるキリストが飢えている時に、喉が渇いている時に、旅をしていた時に、裸の時に、病気の時に、牢にいた時に、それぞれの場面でお世話した、またはしなかった。助けた、または助けなかったということであります。そのキリストの言葉に対して、右側にいる人々も左側にいる人々も、それぞれの立場から、このキリストの言葉を素直に受け入れてない様子が伺えます。しかし、両側にいるそれぞれの人々の態度はどうでしょうか。右側にいる人々は、いつ自分達が王なるキリストに奉仕したのかということがわかっていないくらいに、謙虚で、へりくだっている様子が伺えますが、逆に、左側の人々は、自分達がキリストのために奉仕をしなかった時はないというくらいに、自分達の行いを正当化しようとしている様子が伺えるのです。

私たちが生きている世界は、「評価の世界」と言えるでしょう。目に見える形として、数字で表される世界です。そしてその自分の評価に自信が持てるのは、「達成感」であります。この達成感があるかないかで、自分自身への評価が分かれるのです。しかし、その達成感というのは、結局自分自身にしか適用されません。他者の評価は違うのです。自分の評価を他者に認めてもらうには、その根拠を立証しなくてはなりません。達成感の問題ではないのです。右側にいる人々と左側にいる人々を比べると、左側にいる人々は、キリストに奉仕し続けてきたという達成感に満ちていたことでしょう。むしろ、私たちの姿は、この左側の人々に近いのではないでしょうか。救われるか滅びるかという瀬戸際に立たされれば、心理的不安と直結して、自分の達成感に頼らざるを得ないでしょう。それによって自分を認めて欲しいという願望があるのです。しかし、聖書に記されている神様の救いは、決して自分の達成感によって得られるものではないのです。

ルカによる福音書18章9節~14節に「ファリサイ派の人と徴税人」の譬え話が記されています。この譬え話は、両者が神殿の前で祈っている時に、ファリサイ派の人は徴税人を見下して、自分の正しさ、良い行いをこと細かに堂々と祈ります。それもまた達成感からくる自信の持ち様でしょう。しかし、徴税人は前に立つどころか、少し離れて、遠くからただ一言「罪人である自分を憐れんで下さい」と祈っただけでした。自分自身への達成感など全くなかったと言えるでしょう。主イエスは、立派な人物に見えるファリサイ派の人ではなく、罪人のような徴税人が救われたということを弟子たちに述べて、最後にこう言いました。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」自身がへりくだるということにおいて、やはり達成感が問題ではないのです。むしろへりくだって、本当は何も達成感などない、救われる根拠などないという所に自分を立たせることによって、違った視点を見出すことができるのです。その視点の向く先が、今日の福音書の40節と45節のキリストの言葉であります。ふたつの節を読みます。40節では「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」45節では「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」とそれぞれ言っています。

「最も小さい者」と聞いて、みなさんはまずどういう人を思い浮かべるでしょうか。見た目では赤ちゃん、またはまだこの世に生を受けていない「胎児」を思い浮かべるかもしれません。社会的に考察しますと、どうでしょうか。今日の御言葉にあるように、飢えている人や、病気の人、家がない人など、貧困者や差別を受けている人、抑圧されている人などが思い浮かぶのではないでしょうか。悲劇的なことに人類の歴史において、こういう最も小さな人々が真っ先に戦争や犯罪、天変地異などの犠牲になるという現実があります。悲しいけど、それがあたりまえだという現実の世界に生きている私たち。そんな私たちが、最も小さい者を見出して、その人に手を指し延ばす、助けるということはなかなかできません。むしろ頭で分かっていても、実際にはそういう人たちを見出すことすらできない、関心が持てない私たちの姿があるのではないでしょうか。最も小さい者への視点。その視点を見出すには、まずは自分自身がへりくだり、愛を持って寄り添い、同じ視点に立たなくてはいけないでしょう。

さて、「その最も小さい者の一人にしたことは、私にしてくれたことなのである」と主イエスが言うように、最も小さい者として、この世界に救いをもたらすために降誕された方は、今審判者として人々の前に立っている主イエスキリストご自身であるということが示されています。主イエスはこの最も小さい者の視点から私たちに語りかけておられるのです。それは神様から私たちへのひたすら一途な愛の御心に他なりません。私たちは目に見える形で、この方に何ができるでしょうか。むしろその行為を、誇りを持ってやったという達成感を持つことなどできるでしょうか。いやできないのです。それこそ、右側にいる人々と同じように、自分達がいつ神様に奉仕して仕えたのかという思いと同じなのです。

私たちも小さい者として、神様の目から見失われた羊として、罪の世界をさまよっていた者なのです。そんな私たちのために神様は愛する独り子を、最も小さい者という無力な姿でもって、私たちに救いをもたらしてくださるために、この地上に御降誕され、善き羊飼いとして、羊である人々を養い、育み、導いてくださり、そして十字架と復活による赦しと愛、永遠の命をもたらしてくださったのであります。
私たちはキリストの再臨を待ち望みつつ、日々の信仰生活を歩んでおります。私たち一人一人の働きは、神様の目から見たら、取るに足らないものなのかもしれません。しかし、それは決して自分自身の達成感から来る満足に満ちた働きではありません。パウロもコリントの手紙Ⅰ15章9~10節で、自分のことを次のように振り返っています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」パウロの言うように、ただ神の恵みによって、私たちの働きが祝福され、日々の働きに実りをもたらすことができるのであります。それがたとえ小さな働きに見えようとも、それは最も小さい者へと向けられ、神様に向けられているのであります。再臨のキリストがそのことを明らかに示してくださるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン