2017年12月3日 待降節第1主日「もはや戦うことを学ばず」

マルコによる福音書11章1~11節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

教会暦では、本日の日曜日から救い主イエスキリストの御降誕を待ち望む「アドベント」と言われる時期に入り、新しい年が始まります。

クリスマスの前の4週間をこのアドベントと言いますが、アドベントはただクリスマスを、待つだけの準備期間という意味ではありません。アドベントというのは、ラテン語で到来する、やってくる、近づいてくるという意味です。私たちが待つ、待たないに限らず、私たちの方に救い主イエスがやってこられるのです。その救い主イエスキリストを待ち望み、このキリストをお迎えすることがアドベントの意味です。新しい年を迎える喜び共に、中々先行きの見えない暗闇の中で、日々を過ごしている私たちの姿があるかと思いますが、ヨハネによる福音書1章に「光は暗闇の中で輝いている。」(ヨハネによる福音書1章5節)また「世に来てすべての人を照らす」(ヨハネによる福音書1章9節)とあるように、暗闇の中にある私たちを照らされる真の光として、この世に来られる救い主イエスキリストを待ち望むのです。また、暗闇の中にいるから、主イエスキリストという救い主の光が照らされ、その明るさに喜びを見出すことができます。クリスマスに向けて、今日アドベントクランツには、まだ一本のろうそくにしか火が付いていません。でも、だんだんとろうそくの火が増えてきます。暗闇の中を歩む私たちにだんだんと光がもたらされていくように。この光を見失わないように、そして、クリスマスを迎えるこのアドベントの時期に改めて、神様の愛が、御子主イエスキリストを通してひとりひとりに示されていることに、目を向けていきたいと思います。

新しい年の最初の礼拝、本日待降節第1主日の福音書の日課は、毎年決まって主イエスの「エルサレム入城」の箇所が読まれます。今年はマルコの福音書からこの福音の御言葉を聞いてまいります。

子ロバに乗って、エルサレムに進まれる主イエスを、人々は歓呼の声をもって迎え入れます。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。」この言葉は詩篇118編25-26節の「ホサナの歌」と言われる内容からの引用です。人々はこの歌の中に、主イエスへのメシアとしての期待を抱いていたのです。主イエスの評判はパレスチナ全土に広がり、ヘロデ王やファリサイ派、律法学者などの権力者から度々睨まれていたほどです。多くの人が主イエスによって病を癒され、権威ある言葉で悪霊を追い出していただき、主イエスの語る福音を信じました。今主イエスが新しいユダヤの王さまとして、即位されるために、首都エルサレムに来られた。そして、ユダヤの新しい王さまとして、人々はかつてのダビデ、ソロモン王のような武力と知力に長けた強力な支配者である「メシア」としての姿を、人々は主イエスの中に見出し、大いに期待したことでしょう。主イエスはメシアとして敵国であるローマ帝国をイスラエルから追い出し、父ダビデの来るべき国を興してくれると。イスラエルの人々は「ホサナ」という歓呼の声に乗せて、主イエスに救いを見出した。しかし、主イエスのエルサレムへの道は、彼らが期待して救いの道ではなかった。数日後には「ホサナ」ではなく「十字架につけろ」という歓呼の声へと変わってしまうのです。主イエスのエルサレムへの道、それは人々の歓呼の声が示している通り、「十字架への道」であります。イスラエルの人々もそうですが、私たちも神様の救いというものを、今現在直面している苦難や困難といったものからの徹底的な解放感として認識してしまうのではないでしょうか。そう認識して捉えるならば、私たちは大きな期待感を抱かずにはおられない。期待を抱けば抱くほど、裏切り感も強くなる。そう考えますと「ホサナ」という人々の声と「十字架につけろ」という声は、紙一重ではないでしょうか。根本的な問題は、そういった期待感、裏切り感に揺さぶられる私たちの罪の問題なのです。主イエスが私たちにもたらす救いはその罪からの救いなのです。それが十字架の救いです。私たちの罪を赦すために、今エルサレムに、十字架への道を主イエスは進まれます。

冒頭で、私はアドベントを過ごす私たちが暗闇の中で主イエスの到来を待ち望むと申しました。待ち望むということは、期待感を持つのではなく、希望があるということです。自分達が暗闇の中に置かれている。イスラエルの人々も同じ状況でした。主イエスはその暗闇から突如として私たちを光の世界に導くのではなく、暗闇に光をもたらすために到来されるのです。私たちが生きているこの現実の世界に、主イエスが到来される、赤ちゃんの姿で御降誕される。私たちが生きるこの現実の世界において、私たちの人生は喜びや快楽だけではない、苦難や困難を背負わなくてはならない。しかし、それが生きているということ。死を見つめて、命を見出すように、苦難や困難の中を歩んで、喜びを身にしみるほどに味わうのです。罪を認識して、赦される喜びを見出す。主イエスの十字架が意味するものは、私たち人間の価値観を180度変える神様の御業であります。主イエスの十字架の視点から、神様が私たちに示される愛の御業における私たちへの救いを見出していきたいと思うのです。

主イエスはエルサレムへの道を、子ロバに乗って進んで行かれます。それは確かに王様としての姿です。しかし、イスラエルの人々が描いている王様とは全然違うのです。主イエスが跨って乗っているのは軍馬ではなく、ロバ、しかも誰も乗ったことがない子ロバです。軍馬と比べて、全然ぱっとしないみすぼらしい子ロバの上に乗り、人々の前を通っているのです。人々が求めているメシア象とは全然違います。ロバ、それは「平和、柔和、謙遜」の象徴なのです。いや、むしろ、主イエスご自身が平和の主であり、謙遜で柔和な方なのです。

旧約聖書のゼカリヤ書9章9節から10節には次のように記されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」
この王は、まず神様に従うものであるということです。神様に仕える王なのです。ようするに、神様の御心に従う仕える王であって、人間の期待に応える王ではないのです。そして、10節で「エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。」とありますように、この王は平和の王として来られるのですが、それは武器や兵器によってではなく、むしろ「軍馬を絶ち、戦いの弓は絶たれ」とあるように、力の象徴である武力を絶つことによって遂げられる平和なのです。

だから、エルサレムに入場してきた時の主イエスは、その平和をもたらす王としての姿に重なっているのです。武力を放棄した王であると言えます。しかし、この平和の王は、武力を放棄するのですが、単に戦いから避けることを目的としているわけではありません。主イエスは王として、確かに戦うために私たちの只中に来られるのです。

先ほど、子ろばのことを「農耕に使用される弱々しい家畜」と言いましたが、そう、この子ろばにはちゃんと役割があるのです。農耕に使用され、畑を耕すという役割です。何もしない、平穏無事ということではないのです。それで、今日の第1日課のイザヤ書2章4節にこうあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ただ、剣や槍を破棄するということではなく、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするのです。鋤と鎌、いずれも農耕用の道具です。子ろばも、その平和の王が入場するにあたって、用いられました。

ようするに、主イエスの平和の王としてのお働きは、ただ戦いのない状態のことを指しているのではなく、平和を耕すためのお働きであると言えます。主イエスご自身が平和をもたらすために戦われるのです。それは剣や槍、軍馬と言った武器、兵器によってではなく、平和を耕すことによってもたらすものです。作物が実るように耕すことであって、滅ぼすことではないのです。

私たちはこの平和の王である主イエスをお迎えするのです。主は平和を耕してくださいます。それは迎える私たち自身をも耕してくださる主の平和の御心です。私たちに平安を与えてくださるために、主は来られるのです。

そして、主イエスは大人のロバではなく、縄に繋がれ、まだ丈夫でもないみすぼらしい子ロバに目を向けているのです。力ではなく弱さを選ばれたのです。弱さを選ばれた主イエス。それは私たちと同じところに立ってくださった神の御子としての姿ではないでしょうか。私たちもこの子ロバと同じように、時として人生のどん底にはまり、そこから抜け出せず、闇の淵に捕われている者ではないでしょうか。そして、私たち人間を捕えているもの、それは罪ではないでしょうか。子ロバが縄で繋がれているかのように、罪の縄目に捕われている私たち。その私たちに真っ先に目を向けてくださる。99匹から迷い出た羊である私たちを主イエスは善き羊飼いとして真っ先に見出してくださるのではないでしょうか。それは私たちが「主の御用」のために必要とされていることに他ならないのです。罪の縄目に縛られて、動けない私たちの叫び声に耳を傾けて下さり、私たちのために、十字架に架かって下さり、罪の縄目から解き放ってくださる救い主として、主イエスは到来してくださるのです。

主が与えてくださる平和とは私たちの中にある罪からの救いです。罪の赦しという実り、恵みを与えてくださるために、主は私たちの罪の只中にこられたのです。そのために、主イエスは私たちの罪と戦ってくださるのです。罪ごと私たちを滅ぼすためにではなく、罪あるままのこの私達の命を耕し、生かしてくださるかのように、主は私たちの罪と戦われ、私たちに平和を与えられるのです。この平和を耕される王を迎える私たちもまた、主の平和のために、罪と向き合って、罪と戦い、平和を耕すために、この世を生きていくのです。

私たちはクリスマスに向けて、様々な準備に追われます。私たちひとりひとりの働きは、子ロバのようなみすぼらしい、小さい働きかもしれません。しかし、主イエスは子ろばという弱さを選ばれ、平和を耕すためにその弱さの只中に来てくださいました。私たちの弱さ、罪の只中に立たれ、私たちと共に生きる救い主として来てくださったのです。私たちの働きは小さく、とぼとぼと進んでいく子ろばのような働きでありますが、主がそのろばを選ばれ、平和の王様として歩みを始められた姿に自分の姿を重ねて、私たちの歩みもが主の平和を形にしていく小さな働きとなるように祈りつつ、このアドベントの季節を過ごし、クリスマスを迎えていきましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン