2017年12月17日 待降節第3主日「わたしたちの証し」

ヨハネによる福音書1章19~28節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今月届いたキリスト新聞を読みながら、あるトピックに注目しました。11月25日に立教大学で開催された公開シンポジウムの記事です。テーマは「宗教の再創造、人間の精神性の根源を考える」というもので、仏教、キリスト教、イスラム教などの各宗教の精神性とそれらの起源について各分野の専門家の方が発題され、その本質と役割を考察して、未来への道を模索しようというものです。そこにこんな質疑応答の記事がありました。「個人としての宗教と社会としての宗教とはどのようなつながりがあるのか。人間と神との関係はいかなるものなのか」といいう内容の質疑で、各宗教の専門家の方が答えられているのですが、その中でキリスト教の答えを言われた東京基督教大学准教授の加藤喜之先生は「キリスト教では『神が人になる』こと(受肉)に本質がある」と答えられ、仏教の答えを言われた大正大学総合佛教研究所研究員の平林二郎先生は「大乗仏教の本質は逆に『人が仏になる』ことである」とそれぞれ答えられていました。

人が仏になると聞いて、私は幼少期に祖父から聞いた言葉を思い出しました。私は仏壇のある家に生まれたのですが、ある時、祖父に仏様って何って質問しました。祖父は「仏様というのは、亡くなった私たちのご先祖様のことだよ。ご先祖様が亡くなって会えなくなっても、仏様となって、今でも私たち家族のことを見守って、支えてくれているんだよと。」そう聞いて、その時は実感できなかったのですが、私が小学生の時に大好きだったひいおばあちゃんが亡くなって、祖父の言葉を思い起こし、実感がわきました。ひいおばあちゃんを含むご先祖様たちは、亡くなっても仏様となって、残された自分たちと繋がってくれているのだと。だからずっと悲しむことはないんだと。仏様とだけ聞いてもピンと来ませんが、それが自分の近しい人、愛する人との繋がりの中で見出せれば、決して関わりのない遠い存在ということではないのだと受け止めることができるのかしれません。

そして、キリスト教では「神が人になる」と言います。人がどうであろうと、神様の方から近づいて来られ、私たちと同じ人となられたのです。神様の方からまず私たちと関わっていこうとされたのです。そういう意味では、仏教もキリスト教も、または他の宗教もそうだと思いますが、私たち人間が考える以上に、仏様も神様も身近にいて、繋がっていてくださり、関わってくださっていると言えるのかもしれません。

神が人になる、これはまたクリスマスの出来事を一言で表す言葉でしょう。しかも、このことは毎週の礼拝の中で二ケア信条や使徒信条の中で告白していることなのです。二ケア信条や使徒信条を唱えるというのは、キリスト教はこういう宗教で、私たちはこういう神様を信じて生きていますと説明しているように聞こえますが、信じて生きるということは、説明ではなく、それを形にしていくということです。説明して相手を納得させるのではなく、まず自分自身がその告白の言葉に生きている、神様に生かされているということを証言して形にしていくのです。この証言をするということが証しをするということなのです。

今日の福音書は「さて、ヨハネの証しはこうである。」という言葉から始まっています。ヨハネが登場しますが、ヨハネの言葉や行為は全て神様のことを指し示す証しなのです。このヨハネとは先週の日課で出てきた洗礼者ヨハネのことです。彼は荒野で人々に悔い改めの洗礼を水で授けていました。非常に多くの人が集い、評判になり、一部の人からはこのヨハネこそがイスラエルを救ってくれる救世主、メシアであると信じられていました。その評判を聞いたエルサレム神殿にいる祭司やレビ人たちはヨハネの動向を非常に気にしていたのでしょう。なぜ荒野というへんぴな場所で、しかも祭司などの聖職者しかしてはいけない水の洗礼の儀式を行っているのか。水の洗礼は元々は外国人がユダヤ教徒に改宗する時に、汚れを清める儀礼でしたが、ヨハネは自分たちユダヤの民こそ洗礼を受けて、神様のもとに悔い改めるべきであると教えていたのです。そして、エルサレムから祭司やレビ人たちの使いの者たちが来て、ヨハネに質問します。質問というよりは、尋問に近いものでした。そんな重大なことをしている「あなたは、どなたですか」と。ヨハネはメシアではないと答え、そしてエリヤやあの預言者でもないと言います。エリヤは世の終わりに再びやって来ると期待されていた力ある預言者です。また、あの預言者とはモーセのことを指します。エリヤとモーセはイスラエルを窮地から救ってくれる力強い預言者として、人々から尊敬されていました。そのエリヤかモーセの再来ではないのかと使いの者たちは尋問します。

しかし、ヨハネはそのことを否定し、おそらく苛立ってきたことでしょう、彼らに対して、こう言います。わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。自分は人々から期待されているメシアでも、再来を期待されているエリヤやモーセのような預言者でもない。ただ、彼は声であったというのです。

自分がメシアや名のある預言者であると名乗り出れば、自分の声はもっと人々に聞き届けられると思うでしょう。そういう人物像や名声があれば、説得力があると受け止められ、信憑性があると思われるかもしれません。また自分が行っていた洗礼の行為も理解してもらえると思わないでしょうか。しかも聞いている相手は、エルサレムにいる祭司やレビ人といった、宗教の権力者たちの使いの者ですから、ヨハネが彼らから認められれば、ヨハネにとってはもっと活動がしやすくなっていたのかもしれません。

ここで、ヨハネが自分はそういうものではないと否定したのは、自分はそのような偉大な人物ではないと謙遜しているからなのでしょうか。そうではなくて、彼は自分の叫び声が主の道をまっすぐにさせるための神の声にさせている神様への信頼があったのでしょう。自分の肩書きや立場によって、説得力や信憑性が変化する人間の声ではなく、その次元を超えて、ただ自分は神様の御業を表す声を叫ぶ器にすぎないと確信していたのではないでしょうか。自分がメシアや預言者を名乗るから、神の声を叫ぶことができるのではなく、ただ自身は主の道を整えるために、神の言葉を叫ぶ声にすぎないと証ししているのです。

しかも、ヨハネの叫び声は、荒野という寂しい場所、およそ人が避けて通りたい場所であり、人が住めない場所で叫ばれているのです。人々に注目してもらいたいなら、もっと一通りのある、明るいところで声を発するでしょう。彼の叫び声はそういうところとは全く真逆なのです。荒野という人が避けて通りたい場所、生きづらさを感じ、悲しみや苦しみを負っている闇深き場所で、神の声はヨハネという声の器を通して、響き渡るのです。そのような場所、境遇の只中で、神様なんているのかと嘆きたくなるような深き闇の只中で、神様の声は叫ばれ、そこに神様は共におられるのです。

ヨハネは「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」と、使いの者たちに言いました。使いの者たちは祭司やレビ人たちの使いの者ですから、言ってみれば、祭司やレビ人たちに対して言っているようなものです。礼拝を司り、律法を遵守し、エルサレムに住んでいる彼らこそ最も神様に近い存在であり、神様の声を聞いている者たちであると自負していたでしょう。しかし、神様の声はそのような垣根をぶち破って、およそ私たちが聞き及びもしないようなところで、神様の方から、どんな状況であると、語りかけてくださるのです。神様の方から私たちの只中に来られ、関わってくださるからです。

先月末に、ある姉妹を訪ねに湯河原まで行ってきました。90代の方で、圧迫骨折をされて自宅のベットで横になりながら、療養生活を送られています。前は、病院で入院されていて、その痛みに苦しんでおられました。神様はなんでこのような痛みを私に与えるんですかと、真剣な表情で私に話されていたことを今でも覚えています。けれど、この前伺ったとき、まだ痛みを堪えつつも、ベッド越しでその方がこれまでの人生の歩みを話され、私たち人間ではなく、神様が私たち人間に合わせてくださるから大丈夫ですと、これまた真剣な表情で言われていました。神様が私たちに合わせてくださる、それは神様が私たちを見捨てることなく、むしろ私たちの荒野の中に声を発して語り続けて下さり、そこに人として宿ってくださったということ。そのような思いを彼女のその言葉から受け取りました。闘病生活の中で痛みと戦いながら、神様への信頼の内に言われた激しい叫び声であり、キリストを指し示す証しでした。神様が私たち人間に合わせてくださるから大丈夫、だから私はこのように生きているという命の言葉でもありました。

『神が人になる』こと(受肉)に本質がある。その本質はキリストにおいて形になり、明らかにされます。キリストはひとりひとりと繋がりをもち、友となってくださるために、私たちの只中に来られるのです。神様がこの私の人生を共に歩かれ、荒野の中でさえも共に歩き続けてくださる。喜びがあり、悲しみもありますが、そこで発せられるひとつひとつの人生での声はひとり虚しい声ではなく、キリストの声となって、証しになるのです。喜びだけがあり、全てうまくいくから、神の声を聞くことができるのではないのです。神様が人となり、どんな時にも、どんなところでも自分に合わせて、共にいてくださるから、神様の声を聞くことができるのです。そこに私たちの証しがあります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン