1017年12月24日 降誕祭礼拝「光を知る暗闇」

ヨハネによる福音書1章1~14節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは冬至の季節、すなわち一年間で最も夜の長い日に迎えます。ですから、クリスマスは暗さ、闇が最も極まる時でもあるのです。その極まった深い闇に、すべての人を照らす真の光であるイエスキリストが来られ、この光は暗闇の中で輝くのです。今年も各地で素敵なイルミネーションが開催され、見る者に感動を与えています。先日も電車に乗っていた時、ある広告にどこかの野外施設で行われるのでしょう。「光の祭典」というテーマでイルミネーションの催しが紹介されていました。祭典とはお祭りや儀式のことですが、とても盛大で華やかな行事という意味もありますから、幻想的で美しいイルミネーションの催しが開催されるのでしょう。

これらのイルミネーションに、心奪われるほどに感動を覚えるのは、暗い時間が長くなるこの冬の季節にやるからでしょう。光は暗闇の中でこそ輝く。暗闇を知るからこそ、光の輝きが際立ち、私たちの心を動かすのです。暗闇が現実に存在しているからこそ、その現実の暗闇の中で光が射し込んでくる、その輝きを知り、恩恵として受け取ることができるのです。

さて、聖書は光について、今日の福音書でこう言います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」言という言葉で始まります。主語は光ではなく、言です。しかも、万物は言によって成ったとありますから、光もまた言によって造られた、成就したということです。その言とは、1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあるように、神であると言います。だから、神の言によって造られたのです。神は言でありますから、初めに言があったのです。

このフレーズは創世記1章の言葉と重なっております。創世記には「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(1:1~3)有名な聖句です。言という名詞は出てきませんが、神様が言われたから、混沌の闇に輝く光が「あった」。光が神様の言葉によって成就したのです。この光とは別に、第4日目に神様は太陽や星を造られ、昼と夜とを分けられました(1:14)。ヨハネ福音書1章に出てくる光は、創世記の混沌の闇に輝く光であります。混沌とは秩序がない状態のことを言いますが、私たち人間にとっては、希望がない、希望の見えない状況であると言えるでしょう。絶望としか言いようがない。深い淵にあるかのような暗闇です。人生における様々な悲しみや苦しみ、不幸な出来事であり、先の見えない状態のことです。理不尽な出来事に対して、答えが見いだせない絶望感。この混沌の闇を私たちは自分自身の体験を通して、知っていることでしょう。聖書は、その闇に対する神の光という答えを私たちに明らかにされるのであります。暗闇を避けて、暗闇を無くしてということではなく、暗闇の只中で、暗闇を通して示される光によって明らかにされるのです。

それはこの福音書を書いたヨハネという人物、またはヨハネの共同体が体験し、証ししていることでもあります。このヨハネ福音書は90年頃に書かれた福音書です。ローマ帝国によって、キリスト教会が激しい迫害を受けていた時代です。特に、95年のドミティアヌス皇帝による迫害は、記録に刻まれているほどに、大きな迫害であったそうです。多くの殉教者が出て、死と隣り合わせの闇しか見えない絶望的な状況にあったのでした。しかし、彼らはキリストへの信仰を捨てず、その只中でキリストを宣べ伝えていったのです。なぜなら、真の光を知り、確信していたからです。すぐに消えてしまう儚い光ではなく、自分たちの闇の只中で常に光として輝いている存在、キリストを真の光とし、そこに自分たちの命を見出し、希望を見据えていたからです。大迫害の中で、絶望としか思えない状況の中で、彼らは真の希望の光の中で生きていた。そこが彼らの命のありかとなりました。

このヨハネ福音書はその只中で書かれました。闇の中で輝く光はここにあるよ、ここに明らかにされているよと言わんばかりに、力強く私たちに伝えているのです。そしてこの1章1節から18節までは「ロゴス賛歌」という賛美歌だと言われています。ロゴスとは、ギリシャ語の言葉です。日本語で「言」という意味です。自分を照らす光が言によって明らかにされた。これほどに嬉しい喜びはあるだろうかと言わんばかりに、ヨハネ福音書は賛美しているのです。

ヨハネ福音書の著者たちは無論、創世記の言葉を知っています。神の言葉によって造られた光、その混沌の闇を照らす光は何よりも私たち人間を含む全ての被造物に与えられているということを。この光が最初に造られ、この光に照らされるように、全ての被造物は造られていき、生きるものとなりました。彼らは今、この光が何であるのか、何によって明らかにされたのかということを、ヨハネの証しを通して、私たちに伝えているのです。

9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と言います。世に来ると言います。それは私たちひとりひとりの只中に来るということです。その光が今まさに自分たちのところに来たと言うのです。どのような闇を負っていようと、苦しみや困難さの只中にあっても、その中に輝く光が、今自分たちを照らしている。そして14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」肉となったというのは、受肉されたという意味で、人間となったということです。言である神が人となった。自分たちと同じ人となってくださった。その神の栄光を目の当たりにしたのだと言うのです。先週の説教でも言いましたが、「キリスト教では『神が人になる』こと(受肉)に本質がある」という通り、神が人となったことに栄光が明らかにされ、神様が私たちに与えてくださった暗闇に対する答えでありました。どこか遠くの次元にある超越的で手の届かないような光ではなく、その光の方から、私たちと同じ闇を背負い、闇の只中を共に生きていかれ、光を与えてくださるのです。

さらに、マタイ福音書で主イエスは「あなたがたは世の光である」(5:14)とまで言われ、自分たちもその光を輝かせていく大切な存在であるとまで言われるのです。ですから、私たちはこの人となられた光にただあやかるだけでなく、この光を受け取って、光と共に生きていくものとされているのです。光は言から造られ、言は肉となった。そこに恵みと真理が満ちています。私たちと同じ人となられ、飼い葉桶にお生まれになられたイエスキリストが今日私たちに与えられ、すべての人を照らす光としてもたらされました。これがクリスマスの喜びです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン