2017年12月31日 降誕後主日「満ち溢れる喜び」

ヨハネによる福音書2章1~11節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日は大晦日、そして2017年最後の主日礼拝となりました。年末の大掃除、お正月の準備等で忙しくされているかと思いますが、教会暦では降誕節と言い、クリスマスの喜びを覚える季節であります。

降誕祭の礼拝の中で私たちはこのヨハネによる福音書1章の言葉から、クリスマスの喜びを聞きました。1章14節にはこう書いてあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」言は肉となった。すなわち、神の言が人となり、私たちの間に宿られた。その方が父なる神様の独り子であるイエスキリストです。この主イエスの内に神様の恵みと真理が満ちているのです。さらに、1章16節にはこう書いてあります。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」どれほどの豊かさを私たちは主イエスから頂いているのでしょうか、恵みの上に、更に恵みをいただいている。主イエスの満ち溢れる豊かさの中に私たちの人生は置かれ、喜びの時も、悲しみの時も、苦しい時にも、どんな時にも、神様の豊かさから私たちは突き放されていないのです。この神様の豊かさの中にあなたたちの命の息吹があるのだということを伝えているのです。限りあるものではなく、神様の豊かさは永遠であり、惜しみなく与えてくださるということ、恵みの上に、更に恵みをというは、尽きない恵みであります。それは、あの水汲みに来たサマリアの女性に、主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と言われた言葉の通りであります。この神様の豊かさを知る喜びに私たちは招かれているのです。

今日の福音書である有名なカナの婚礼の物語、水をぶどう酒に変えた主イエスのしるし物語は、その神様の満ち溢れる豊かな恵みが人々を包み込み、婚礼の真の喜びがどこから来ているのかということを私たちに伝えています。そして、ヨハネによる福音書においては、このカナの婚礼の物語から主イエスの宣教が開始されていくのです。宣教の開始、または教会の始まりが婚礼の喜びを知るところから始まっているのです。それは主イエスを信じ、主イエスに従う弟子たちが、その弟子たちの群れである教会という信仰共同体がこの喜びを抱いているということです。それは婚礼の喜びそのものではなく、婚礼を通して働きかけてくださる神様の豊かな恵みを喜びとして抱いている、または証ししていく場であるということです。

さて、主イエスと弟子たちは婚礼の席に出席しますが、そこで母マリアと出会い、彼女から「ぶどう酒がなくなりました」という訴えを聞きます。マリアは婚礼の給仕役としてそこで働いていたのでしょう。主イエスとマリアの親戚の婚礼であったのかもしれません。昔の婚礼は、一日だけでなく、数日に渡って行われていたそうです。家族が結婚式を挙げるとなると、一家の主人は惜しみなく、式のためにお金を使い、多くの人に食事やお酒を振舞っていました。それも一日だけではありませんから、普段貯蓄していたお金をつぎ込んで、この婚礼を祝っていたことでしょう。その祝いの席で、ぶどう酒が足りなくなるという不測の事態が起こります。せっかくの喜びの席が台無しになり、結婚の喜びが途切れてしまうと思っていたのでしょうか、マリアたち給仕役は気が気でなかったでしょう。

そこに息子のイエスがおり、お願いしてみます。すると、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」とどこか冷たい言葉で返します。母親に対して、婦人よという言い回しは、単に家族として向き合っているのではなく、主イエスはマリアを一人の人として、敢えて距離を置いて答えている様子です。その理由は後半の「わたしの時はまだ来ていません」という言葉にあります。救い主として、神様の御心をまだ行う時ではないと言います。その神様の御心を行う時というのは、十字架につけられて死ぬ時であります。12章23節、24節で、宗教の権威者たちから命を狙われ、ユダが裏切る直前に、主イエスは弟子たちにこう言います。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」十字架につけられて死ぬ時、それは栄光を受ける時であると言うのです。その定められた時が主イエスの時であり、まだその時は来ていないと言われるのです。その十字架の死によって、あなたがたが罪から赦され、真の喜びを知るときであると言わんばかりに、主イエスは一人の人マリアにそう答えられたのです。その真の喜びが成就する時がいずれ来る。マリアはその主イエスの時をどのように受け止めたのかはわかりませんが、ここからは自分の願い通りではなく、主イエスの言葉に委ねて、働いていこうと決心します。

主イエスは召し使いたちに、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ六つの中に水を入れるように言います。モーセの律法に従って、参列者たちが水で体を清めた水がめであったのでしょう。それは空でした。大きさを表す単位として、メトレテスという言葉が出てきます。1メトレテスが39リットルと言われていますから、一つの水がめが二ないし三メトレテス入りなら、一つの水がめの容量は約100リットルになります。それが6つありますから、合わせて合計600リットルと、大変な量になります。召使いたちは急いで、水を入れていったでしょう。水を入れ終わると、主イエスは「それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われ、世話役は運ばれてきた水がめを覗いて味見をし、ぶどう酒であることを確認します。それが主イエスから来たことを知らなかった世話役たちは、花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と称賛します。良いぶどう酒を今まで取って置かれましたということは、この主イエスがもたらしたぶどう酒が一番良い酒であったということです。この婚礼の席を最大の喜びに満たしたぶどう種でありました。喜びが途切れることがなかったということだけでなく、あたかもこの水からぶどう酒に変わった酒が、この婚礼の喜びの主であるかのように、婚礼も神様の喜びの業が中心にあって、人々がその喜びを分かち合う時として、水はぶどう酒に変えられたのです。

このしるしを通して、主イエスを信じたのは弟子たちでした。弟子たちがこの婚礼の席で何をしていたのかはわかりませんし、水がぶどう酒に変わったということをどこから聞いたのかということはわかりません。しかし、彼らは確かにそこで主イエスの栄光を目の当たりにし、婚礼の喜びが主イエスを通して、神様から与えられている喜びであると信じたのです。主イエスの弟子とは、この喜びがどこから来るものであるのかを知っているものたちであります。

しかし、このカナのしるし物語は、弟子たちだけにこの神様がもたらしてくださる喜びを伝えているのではないのです。花婿をはじめ、婚礼の客、味見をした世話役、水を汲んだ召使いたち、マリアにも伝えられ、そして私たちもこの喜びに招かれているのです。「このぶどう酒がどこから来たのか」、それを知っているのは召し使いたちだけでした。そのぶどう酒が一番良い酒であったことを体験したのは世話役でした。花婿をそのことを聞きます。ぶどう酒は主イエスから来ました。主イエスは神様のもとから来られた救い主です。一家が総力をあげて準備した婚礼は見事なものだったでしょう。しかし、ぶどう酒が足りなくなった。それは自分たち人間のできる限界を現しています。喜びの中に小さなほころびをもたらしてしまう、私たち人間の限界があります。

私たちはもう自分たちがもたらす喜びはここまでかもしれないと思うことがあります。悲しみや苦しみを体験した時、ぶどう酒が尽きるかのように、喜びが尽きて、みず瓶が空っぽであるかのように、自分たちの心も空っぽになってしまうことがあるでしょう。その思いを代弁するかのように、私たちもまた「ぶどう酒がなくなりました」と叫ばずにはおられません。

主はそんな私たちの叫び声を聞いて下さり、御子イエスをこの世に送ってくださいました。そして、婚礼の時を初め、人生の全ての出来事に関わってくださり、共にいてくださるのです。ぶどう酒がなくなったという私たちの心の空虚さを真の喜びで満たしてくださるために、水をぶどう酒に変えられる豊かさの中に招いてくださるのです。ヨハネ福音書が描く宣教の原点はこの喜びをもたらすのはどこから来るのかということを知ることから始まるのです。この主イエスがもたらしてくださる神様の豊かさの中に生き、喜んで感謝できる歩みを共にしてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン