2018年1月14日 主の洗礼日 「共に生きる神」

マルコによる福音書1章9~11節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日は主イエスの洗礼を覚える主の洗礼日です。主イエスはガリラヤのナザレという小さな町でお育ちになられ、そのナザレから人々に洗礼を授けていたヨハネのもとに来られて、彼から洗礼を受けられました。主イエスのご生涯はこの洗礼の出来事から始まるのです。

このマルコ福音書には記されていませんが、マタイによる福音書では(3:13~17)ヨハネから洗礼を受けようとされる主イエスに対して、ヨハネはそのことを引きとめようとしました。ヨハネの洗礼は罪を犯した罪人に対するものであって、罪のない神の子が洗礼を受ける必要性はどこにもなかったからです。ヨハネは自分こそが主イエスから洗礼を受けるべき者であると言います。しかし、主イエスはヨハネに自分が洗礼を受けるのは、神の正しさを貫くため、すなわち神様の御心を成就するためであると話し、そして洗礼を受けられました。

主イエスが洗礼を受けられたのは、罪を犯したからではなく、洗礼を必要とする罪人と同じところに立たれ、同じところに身を置かれるためでした。同じところに立ち、共に生きる神として、罪人と共に生きていくためでありました。罪人を裁き、罪人に服従を要求するためではなく、罪人と交わり、罪人の救い主として、罪人を救うためでした。罪人や徴税人たちと共に食事をされた主イエスのお姿からもその意志が伝わってくるかと思います。

罪を自覚し、神様の愛の恵みを見失っていた者からすれば、これは大きな慰めであります。神様との繋がりをもう持つことができないと思っていたら、神様の方から自分たちと繋がってくださった。主イエスという神の子によって、それが実現されていくのです。それも高みからの慰めではなく、同じ人となられ、同じところからこの慰めを与えてくださるのです。ヘブライ人への手紙2章17節にこう書いてあります。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」すべての点で兄弟たちと同じようになられたということですから、ひとりひとりと同じところにたって下さるということです。誰一人として、主イエスから拒絶される者はいないのです。そしてそれは、民の罪を償うため、罪から救うためです。ただ同じところに身を置かれて傷の舐め合いをするのではなく、神の救いを実現されるために、同じところに身を置いてくださったのです。

主イエスは洗礼を受けて水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように降ってきました。天が裂ける、天と地が交わったのです。そして天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。これは詩篇の第2編にある言葉です。詩篇にはこう書いてあります。「聖なる山シオンで
わたしは自ら、王を即位させた。」/主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。(2:6~7)これは王の詩篇と呼ばれる詩篇で、神様の業を地上にお立てになった王が行うことを喜ぶ言葉です。この王が神の子として、地上で神の御業を行う主イエスです。主イエスが神の子として、愛する独り子として、この世に遣わされ、罪人を救う神様の御業を行うという神様からの使命です。それは主イエスが神の子として、神の御業を行う神様の御心に生きる者であるということを言っています。

そして、今日の第1日課であるイザヤ書の42章1節にこういう言葉があります。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」神様が選んだ者である主イエスが神の子としての王であるのと同時に、神様の下僕であるということです。神様の僕として、神様の意志に従い、神様のご計画を全うしていく者であるということです、神様の僕として神様に仕え、さらには罪人と同じところに立たれ、人に仕える僕として歩んで行かれる主イエスのお姿がここにあるのです。主イエスは神の子として、また神の僕として、神様の御心に従い、罪人を救うために全てを人々に与えつくされる救い主として、私たちの只中に来てくださったのです。そして自らが罪人の身代わりとなり、罪人が神様の前に正しい者とされるためであります。そのための救いの道を十字架への道として歩んで行かれるのです。

福音書の中に見失った一匹の羊の話があります。マタイによる福音書では、18章10~14節に記されていますが、見失った一匹の羊を探すため、99匹の羊を残して、羊飼いが自ら探しに出かけます。必死になって、その見失った迷いのうちにある一匹の羊を命懸けで探し出してくださいます。そして、主イエスはこう言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」一人でも滅びることを望んではいない。迷いの内にあり、苦悩の中にある者のところに神の子は降り立ち、その者を見出し、もとの99匹のいるところ、神様のご支配のもとに連れ戻してくださいます。時に私たちの人生はこの見失った一匹の羊のように、迷いと苦悩に遭遇します。神様を見失い、己を見失うことがあります。自分が本来いるところ、自分の帰るべき場所、その原点を見失い、途方にくれます。その時誰が助けてくれるのか、それはわかりません。圧倒的な力で、自分を導いてくれる者を望むのかもしれません。天の神様はその自分ひとりが滅んでしまうことを望まれません。滅びないように、自らが降り立って、自分たち人間と同じところに立たれ、私たちを探し出し、導いてくださるのです。

主イエスは私たちひとりひとりを訪ね求め、神様の憩いの只中に招き入れるために、自らも洗礼を受けて同じところに立たれ、全てを与えつくしてくださる神様の僕として、わたしたちの只中に来てくださいました。ひとりひとりを訪ね求め、自分の居場所を教えてくださり、そこから再び己の人生を共に歩んでくださる神の子として、私たちと共にいてくださいます。

この後、主イエスはこう言われて、宣教を開始されていきます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と。神の国は近づいた、迷いの内にある者、罪人を主イエスは神の国へと到着させるために、福音を伝えていかれます。主イエスの方から私たちのもとに来てくださいます。一人も滅びることのない愛する者として、神様は私たちに今日も命を与え、糧を与えてくださる。その恵みの神様に信頼して生きる救いの道を、主イエスは共に歩んでくださるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン