2018年1月21日 顕現節第3主日「神の国は近づいた」

マルコによる福音書1章14~20節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

新年を迎えて3週間ほどが経ちましたが、年度末が近づきつつあります。皆様、忙しくされているかと思います。この六本木ルーテル教会では、3月4日に会員総会を開催し、新年度の宣教方針、年間の活動スケジュールを決めて、教会の歩みを新たにしてまいります。

昨年は宗教改革500年の時を迎え、皆でお祝いいたしました。そして、今年この六本木ルーテル教会は宣教70周年の時を迎えます。宗教改革500年、宣教70周年と、大きな節目の時に挟まれて今この時を歩んでおりますが、宗教改革500年にしろ、宣教70周年にしろ、どちらも神様の支配における御力によって、起こっているということであります。ルターの働き、またこの地に宣教の種を蒔いてくださったミズーリシノッドの宣教師の方々の働きを覚えますが、彼らは主の弟子として、主イエスに仕え、主イエスと共に生き、主がもたらしてくださった福音を宣べ伝えてこられました。主イエスと共に生き、神様の働きの器として歩むということにおいては、働きの内容は違えど、現代の私たちと何も変わることはないのです。彼らを信仰の先達者として尊敬しつつも、神様のご支配の下にあって、それらの働きが神様の御力から来ているものであって、恵みの御業なのであります。私たちもそのように歩んでいくのです。そして、今日の福音書に登場する主イエスの最初の弟子たち、シモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人も、彼らからではなく、主に呼ばれて、主の器として、人間をとる漁師として、主の御業に仕えていったのです。

2つの大きな行事を覚え、また会員総会を前にして、今日の福音書からわたしたちは主イエスの宣教の開始と、宣教の初めにされた弟子の召命の物語から御言葉を聞きました。主イエスの宣教の核、中心となる言葉が15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものです。主イエスの生涯、宣教活動の中心はこの短く簡潔な言葉にすべて示されているとも言えます。この出来事が、洗礼者ヨハネが権力者の手によって捕らえられ、ガリラヤというエルサレムの都からは離れた辺境の地から始まったのでした。

洗礼者ヨハネが捕らえられた、これは人々に大きな衝撃を与えた出来事でした。ある人々はこのヨハネこそが神様の救いをもたらす救い主、メシアであると思われていたからです。そのヨハネが捕まってしまうという緊迫感漂う状況の中で、主イエスは宣教を開始されていくのです。それはヨハネの意志を今度はご自身が継いでいくという意味ではなくて、ヨハネが捕まったことはヨハネまでの預言者の働きは終りを迎えたということを意味します。終りを迎えて、ここからは新しい神の救いをもたらしていく時代が到来したということを意味しているのです。

しかも、その場所はエルサレムではなく、ガリラヤという辺境の地、マタイによる福音書では、「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4:15~16)と言われているように、暗黒の支配する、死の陰の地に住んでいる民に対して、神様の救いから最も遠いと思われていた人に、神様の救いが来たのです。主イエスによって、神様の方から来たのです。

主イエスはその地で、彼らに向かって「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。時は満ちた、砂時計の砂が下に溜まって、その時間が来た、それまでの待つ時間が終わって、時が満ちたと言います。そして、神の国は近づいた。神の国とは神様の支配、御力のことです。人間の力や行動ではありません。それが近づいたというのは、目と鼻の先まで来ているということ、ようするに、間もなく来るということです。間もなく来るということは、もう来ているということを前提にして時間軸です。例えば、駅のホームで電車を待っている時に、間もなく何番線に何行の電車が参りますとアナウンスを聞いたら、もうその電車は一分もかからないうちに、ホームに来ると受け止めるでしょう。だからもうその電車に乗る気でいるでしょう。間もなく来るというアナウンスを聞いて、お手洗いに行ったり、駅弁を買いに行ったりすることは、特別な事情がない限りはしないかと思います。子供に対しては、もう電車が来るから、うろちょろしないで、そこで待っていなさいと注意するかと思います。もうその間もなく来る電車と自分は既に出会っている、出会っているからそこに乗らなくてはいけないと受け止めるかと思います。ですから、神の国は近づいた、というのは、もう神の国は今既に来ているという意味なのです。その電車に乗るように、その神様の支配の中に生きていくために、悔い改めて、すなわち神様の方に方向転換をして、心の向きを変えて、福音を信じなさいと言います。福音という神様の救いの喜びの訪れを信じなさいと主イエスは言われるのです。

この神様の救いが今来ているという根拠は、主イエスご自身がその神様の救いであり、福音をもたらす神の国であるということです。神の国という神様の支配、御力が福音という良き知らせとして、主イエスによってもたらされるものなのです。だから、もはや洗礼者ヨハネたち預言者の時代は終わり、主イエスによる神様の救いが明らかにされていく新しい時代が始まったのです。もう今既に始まっているのです。間もなく来るという神の声のアナウンスを私たちは聞いているのです。そして、これは2000千年前の過去の声ではなく、今現代の私たちが聞いている声なのです。その声を私たちも直接聞いているのですが、その声を形にしていくものたちの働きを通しても、私たちはその声を、神様の救いの声を聞き、この時を歩んでいるのです。

その声を形にしていく弟子たちの召命の物語が16節から始まりますが、マルコによる福音書ではあまり細かい情景が描かれていません。ガリラヤ湖を訪れた主イエスは、漁をしていたシモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけ、彼らはすぐに網を捨てて従いました。網を捨てて従うということは、商売道具を捨てるということであり、財産を捨てるということでもあります。それらを捨てて従うということは、主イエスに信頼して、主イエスにある自分の命を信じて、主イエスと共に生きていくということです。そして、ヤコブとその兄弟ヨハネも主イエスに声をかけられ、彼らは船だけでなく、父親という家族をも残して、主イエスに従っていくのです。すぐに従うということは、主イエスにすべての望みをかけて、委ねて生きていくということを伝えています。

この4人の弟子は主イエスの12弟子となって、主イエスの昇天後は、教会の代表者として、教会を導き、最期は全員殉教したと言われています。今の私たちが殉教をするということは考えられないかもしれませんが、これは彼らが主イエスと共に生き抜いたということを私たちに伝えています。そして、私たちもまた、殉教をするということを身近に感じられなくても、主イエスと共に生きるということは、ペトロたちと同じように、主イエスの弟子として生きているということです。主イエスの弟子として、主イエスと共に生き、主の宣教を宣べ伝えていくのです。

けれど、ペトロたちのような体験を自分たちはするのだろうかと思うかもしれません。彼らに何か特別な才能があって、それですぐに主イエスに従うことが出来たのだと考え、彼らは特別だと思うかもしれません。しかし、彼らは預言者でも、祭司でもなく、教養があまりないと言われていた漁師たちでした。主イエスに呼ばれるにあたって何かに秀でていたわけではないのです。使徒言行録で、主イエスの宣教をするペトロとヨハネの大胆な行動を見ていた人々は「二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒4:13)という彼らの姿を記した場面があります。ですから、無学な普通の人である彼らに何か特別なものがあったのではなく、主イエスの一方的な招きがあって、彼らはその呼びかけに応えて、従っていき、主の宣教の御業に仕えていっただけなのです。

それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの声に聞き従い、神様のご支配の内にある彼らの働きであり、活動なのです。そして、この救いの御業をもたらすのは主イエスであり、主イエスが神の国をもたらす恵みの主なのです。電車が間もなく来るとアナウンスされるように、神の国が近づいた、主イエスにもたらされる神の救いが私たちに到来したのです。私たちが悔い改めたから来たのではなく、神様の方からこの救いの御業をもたらすために、しかもガリラヤという神様の救いから遠いとされていたものたちのところに、真っ先に来てくださったのです。神の国は近づいた。もう間もなく来るから、私たちはその電車に乗る姿勢を整えるように、方向転換をして、主イエスの救いの恵みに安心して与れば良いのです。

私たちの宣教の活動はこの恵みの主から来ているということを覚えたいと思います。ペトロやルターやミズーリシノッドの宣教師の方々のような大きな活動、働きは出来ないかもしれませんが、同じ主の弟子として、主と共に生き、主の恵みの御業を、自分たちに与えられている賜物を通して、行っていけば良いのです。何か真新しいこと、派手なことをしなくてはいけないということではなくて、ひとつひとつの小さな活動が、働きが、主の救いの御業、恵みとなるように、主の御心を祈りつつ、主の呼びかけに応えて、歩んでいくのです。

そして、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」この呼びかけは、キリスト者、キリスト者でない方に関係なく、全ての人に呼びかけられ、主の恵みとして招かれています。神の国はもう間もなく、目と鼻の先です。この出来事を喜びの訪れとして待ち望み、この喜びをもたらす主イエスと共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン