2018年2月11日 変容主日「救いの道」

マルコによる福音書9章2~9節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今週14日の灰の水曜日から四旬節が始まり、主イエスの受難と十字架を覚えて私たちは歩んでまいります。その前の本日の日曜日を変容の主日として礼拝を守っております。この主イエスの変容の出来事は、神秘的で謎に満ちております。弟子たちは幻を見ていたのでしょうか。そしてこの出来事は私たちに何を示しているのでしょうか。

今日の福音書は六日の後という言葉から始まっています。ある日突然起きた出来事というよりは、この変容の出来事はこの六日の後に起こった出来事として、六日前の出来事から繋がっている印象があります。六日前というのは、これより前の8章31節まで遡ります。ペトロが主イエスのことをメシア、あなたは私たち人間を救われる神の子であり、キリストであると信仰の告白をした後、31節からペトロを含む弟子たちに、主イエスが次のように語っています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:31~35)ペトロが告白したその救い主は、やがて多くの苦しみを受けて殺され、三日後に復活するという。さらに、その救い主である主イエスに弟子として従う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って歩み、従う者の道であると言われたのです。弟子たちは落胆し、絶望を感じたことでしょう。自分が期待して信じていたものの道が、そこで絶望の内に終わってしまう。主イエスが救いをもたらす救い主として、自分たち人間の救いの道であると信じていたのに、それは殺されて終わってしまうという末路を辿ってしまう道ではないか。そのような思いに打ちひしがれていたことでしょう。

そのような思いの中で、弟子たちは主イエスと共に6日間過ごしていました。そして、6日後ですから、7日目にあたりますが、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。この3人の弟子だけを連れていかれるというのは、よほど重要な何かを伝えたかったのでしょう。そこは神様が顕現すると言われている高い山です。そこで彼らは変容の出来事に遭遇しました。

主イエスの姿が彼らの目の前で変わり、真っ白になったと言います。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」と言いますから、それは人間が理解できる色彩という次元を超えて、神様のなせるみ業でした。また、この変わるという言葉は、変えられるという受身の言葉から来ています。主イエスがご自分で仮の姿から真の姿を現した、変身したという意味ではなく、真の人である主イエスが変えられた、神様によって変えられたということです。

そして彼らがそこで見たのは、モーセとエリヤと語っている主イエスの姿でした。モーセとエリヤは、旧約聖書を代表する人物です。神様の教え、御心を体現している中心人物であると言えます。モーセやエリヤのような神様の教えを民に伝え、民を導いてくれる指導者が主イエスと語り合っている。そんな所に自分たちはいる。神様の救いはここにあるんだと思わんばかりに、ペトロは興奮したのでしょう。記念に仮小屋を建てましょうと言います。絶望と落胆の内にあり、お先真っ暗だと思っていたが、そうではなかった。主イエスの姿がまばゆく輝き、モーセやエリヤと共に語っている。ここには十字架にかかって殺されるという姿は微塵も感じない。この栄光に包まれている主イエスがおられ、自分たちもここにいる。だから、自分たちもここに留まっていたいという思いがあったことでしょう。ペトロの興奮は私たちも抱くような期待と感動だと思います。しかし、福音書は彼のことを「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。」と記しています。正気を失っていたと言うのです。正気を失うほどの神秘的な輝きに自分を見失って、それがいったい何を現しているのかがわからなかったのです。

けれど、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは雲の中から聞こえる声を聞いたのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 そして、急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。と言います。正気を失って、自分が見ていたものが全て偽物であったということではなかったのです。これに聞け、主イエスに聞けと声は言いました。モーセやエリヤではなく、モーセとエリヤを通して示された旧約の実現、神様の救いはこの主イエスによって、ペトロが告白したキリストによって成し遂げられていくということです。弟子たちは主イエスから聞かされた受難と十字架の言葉に狼狽え、救いの道を見失っていました。その苦難と死という闇に打ちひしがれ、闇の中に留まっていました。しかし、彼らの前で変容の出来事が起こり、まばゆい光に包まれ、神様は主イエスの変容の姿を通して彼らに答えを示されたのです。救いの道に至る答えです。彼らは正気を失い、その答えをまだ受け止めてはいませんが、神様はその答えをこれに聞け、主イエスに聞けと言われました。主イエスに聞くということは、今の私たちは聖書の御言葉から聞いていくということです。聞くということは、ただ耳で聞くということではなく、それを心に留めるということです。

主イエスは弟子たちと山を下りました。そして彼らに言います。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と。今見たことをだれにも話してはいけない。決して偽物ではなく、彼らの勘違いでもなかった変容の出来事です。神様の答えが示されたのです。その答えを実現されていく主イエスの道は、十字架への道であり、死に至る道であります。主イエスは闇を避けるのではなく、闇に向かって行かれるのです。その闇の只中で、復活の光を明らかにされていくのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章6節にこういう言葉があります。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」この私たちの心の内に輝く光は、闇の内から輝く希望と命の光です。主イエスの変容の光はこの光を表していました。それは闇を抱くものの光です。実は闇が、今自分が背負っている闇がその光を明らかにしていくのです。その光が主イエスの変容の正体なのです。

弟子たちは神様の顕現の場である山を降りていきましたが、そこには主イエスが共におられます。ですから、現実世界で、自分ひとりでその闇を背負って、復活の光に目覚めよとは言われません。弟子たちも私たちも、弱いものだからです。主イエスの十字架に従うことはできなかったのです。闇の前に無力なのです。主イエスはそのことをご存知なのです。だから、その闇に恐れるなと伝えているのでしょう。このわたしが共にいるから、共に山を降りて、現実世界に生きるあなたと共にいるから。闇にしか思えないあなたの今の歩みの中に私は共にいる。闇の中にあって、迷いつつも、私たちの救いの道は備えられているのです。必ずそこに到着するのです。主イエスが必ずそこに導いてくださるからです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン