2018年2月18日 四旬節第1主日「試練がもたらすもの」

マルコによる福音書1章12~13節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスの受難と十字架の死を覚える四旬節を迎えました。主イエスの十字架は何を意味しているのか、死ぬとはいったいどうことなのか、ということについて私は考え、思いめぐらします。死ぬと言っても、肉体的な死を迎えるということだけでなく、死とは自分の考えや価値観が全く通用しなくなり、自分の力や知恵というものは全くの無力であるということを突きつけられる体験でもあるかと思います。四旬節に限らず、そういった体験はいつでもするものであり、自分の無力さが明らかにされつつも、それを認めたくない自分のプライドが働き、自分の力や知恵、考えに立ち、それらを貫ことする私自身の姿があることも事実であります。そういう自分自身の本来の姿を知りつつも、神様は試練を与えて、容赦なくこの私というものを捨てさせ、私自身が自分の力や知恵で自分の人生を生き抜いているのではなく、また自分自身の足で自分の存在を引き立たせているのではなく、その自分を生かしているものに目を向けよ、目覚めよ、と導いていかれる。四旬節の40日間は特にそのことを意識し、体験する季節ではないかと思います。この時を通して、神様は私によけいな物を捨てろとまで言われる。でもそれは私という存在を否定し、自暴自棄になれということではなく、この私を愛し、命を与えてくださっているものに気づかされ、立ち返る時であり、そして、そこから、神様を愛し、隣人を愛する道が開かれていくのです。

四旬節の最初の日曜日に、私たちは先ほどお読みいただいた主イエスの荒野での誘惑、試練に遭われた御言葉を聞きます。今年はマルコによる福音書から聞きました。マタイとルカの福音書にある3つの誘惑の場面はありませんので、具体的にどのような誘惑、試練に遭っていたかはわかりませんが、共通することは、主イエスは神様の霊によって、神様の力によって荒野に送り出されたということです。送り出すと言っても、これはもっと強い言葉で、強いていかれたということです。この強い言葉は、これから受けられる誘惑、試練の激しさを物語っております。そこで四十日間留まってサタンから誘惑を受けましたが、四十日間の誘惑、試練は出エジプトから約束の地、カナンの地を目指して40年間歩んだイスラエルの民を思い起こします。誘惑、試練の連続でした。食料、水ですら、自分たちの力で調達できるのか、私たちは飢えて死んでしまうではないかと、神様やモーセに不平不満を言いつづけ、その只中で神様が彼らを養い、導いていく荒野の旅路であります。自分たちの考えや価値観が通用しない世界、自分の所有しているものの貧しさ、虚しさを痛感させられたあの荒野の旅路での出来事。自分たちは神様からさえ捨てられたのではないのか、だからこんな目に遭うのだと叫び声がこだまする荒野での体験です。荒野とは人里離れた場所とも訳されますが、このように人から避けられ、捨てられ、自分の無力さを痛感する場所です。全然魅力のある場所ではありません。

イスラエルの民たちが荒野で誘惑、試練に遭われたように、主イエスもそこでサタンから誘惑を受けました。誘惑や試練を与えるのは、このようなサタンや悪魔とった悪しき力、神様に背く勢力がもたらすものであると私たちは考えますが、主イエスを荒野に、しかも強いてでも送り出したのは、神様の霊による力であり、神様ご自身なのです。試練に遭うことは、神様の意志に反した悪しき力によるものであり、それが軸になっているように思えますが、サタンや悪霊がそれを媒体であっても、試練を与えるのは、その場に送り出すのは神様の霊なのです。

イスラエルの民が絶望し、叫び声をあげつづけたように、私たちもまた試練の只中にあって、彼らの姿と重なります。彼らと同じ心境に陥るかと思います。とことん、自分の無力さを痛感させられるものです。主イエスは神の子でありながら、真の人として、この荒野で試練を受けられました。マタイやルカではこの後3つの誘惑の場面を描きますが、いずれも主イエスの正体を彼らは理解し、その力を試そうとしているのです。神の子ならパンに変えたらどうだ、神を信じているなら試してみたらどうだと。主イエスには神の子の力がある。一瞬にして物事を解決できる圧倒的な力がある。その力があるのだから、あなたにはそれができるのだから、自分の力で立ち、生きていけば良いではないかと揺さぶるのです。それは実に人間にとって魅力的で、励ましになる言葉です。そう、あなたにはそれができる。自分の力を信じてやればいいではないか。しかし、その自分のもっているのがすべて尽きた時、自分の頼れるもの、心地よいものがすべて失われたら、それで終わりなのです。自分の信じていた力が、すべて消え失せ果ててしまう。そんな自分を誰が顧みて、助けてくれるのでしょうか。なんとかそんな自分を満たしたい、自分の力や知恵に確信をもって自分を満たしたいと思う一方で、満たしても満たしても、容赦のない渇きが私たちを襲います。渇きに恐れつつけ、その恐れに対抗するための満たすものを追い続ける日々。その先にいきつくものは何でしょうか。

試練に遭われた人と聞いて、私たちはルターを思い起こすかもしれません。ルターの生涯と信仰は試練を語らずしては明らかにはなりません。ルターの宗教改革、福音の再発見の出来事は自身の試練の体験が導いたと言えます。ルター自身の偉業ではなく、試練を通して信仰へと導かれたルターの成した出来事でした。生涯を通じて、とことん試練の前に打ちのめされたルターは、自分の力や確かさ、苦労が多かったことによって神様の恵みを知ったのではありませんでした。それは、修道院時代、修道院長であった恩師シュタウピッツが彼に「キリストの十字架に救いを仰ぎ見よ」と言われ、導かれたことをきっかけに、自分の正しさではなく、神に用いられていかされている自分に気づかされ、聖書の言葉を通して、神により頼む信仰の道を歩んで行ったのです。自分の力が自分の信仰、また自分の渇きを満たすのではなく、自分に信仰を与え。自分を満たし、愛して生かしてくださっている方に目を向け、その自分のために十字架にかかってくださったキリストを仰ぎ見る生涯へと変えていかれました。それは試練を通して、彼が導かれた体験でした。彼自身は試練についてこう言っています。「すべての試みは、たとえそれが悪魔や人々から来るのであっても、神から来るのである」すべての試みは、試練は他でもない神様ご自身から来ている。この試練を通して苦しみ、自分の無力さを打ち付けられますが、そこで飢え乾いて死ぬのではなく、その真実を通して、自分を活かし、癒しと慰めを誠に与えてくださるかたとの出会いの契機となったのです。自分にはない、自分の力で立っているのではない。神様が自分を立たせてくださっている。だから、私はここに立つことができるのだと。厳しさをもつ神様であっても、神様は真実な方であり、その真実をもってして、人を愛し、生かす道を備えてくださっている。そのために、主イエスを十字架につけられたのです。

主イエスは試練に遭われ、神の子の力の大きさ、真実さを明らかにしたのではなく、真の人としての無力さを体現しつつ、神により頼む姿勢を私たちに明らかにされました。神様が真実な方で、この私を満たして下さる方であると、サタンに告白したのです。試練を通して、人の姿を明らかに、神様に至る道を備え、明らかにしてくださいました。自分の力、よけいなものを失います。そういう辛さは確かにあります。しかし、失ってそれで渇いて終わるのではなく、その渇きから満たされる神様の真実が私たちを生かします。この荒野の出来事を通して、試練は神様との出会い、深い交わりを持つ時であることを私たちに示しているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。