2018年3月4日 四旬節第3主日 「人生の再形成」

ヨハネによる福音書2章13~22節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書は「宮清め」と言われる箇所で、皆さんよく知っている聖書のお話しだと思います。過越祭が近づいていました。1年に一回、約7日間も続くと言われているユダヤ教最大の祝祭です。これは出エジプトを記念し、彼らの救済体験を想起する重要な祝祭です。その救済を成し遂げてくださった神様への喜び、感謝を祝います。エルサレムの街は活気づいていたことでしょう。ローマの支配下にありつつも、この時は多くの人がここに集い、露天なんかも出され、賑わっていたのだと思います。この賑わいの只中を通って、主イエスと弟子たちは神殿に向かいました。主イエスはその神殿の境内をご覧になります。そこは礼拝と商売が一体化している光景でした。罪の赦しを願うための神様への生贄の動物がおり、それは商売人によって管理されていました。この商売人から動物を買って、その動物を献げるのです。外国の土地から来たユダヤ人のために、両替商もいました。万事、礼拝をするための道具は揃っています。そのシステムは完成していました。過越祭が近いから、エルサレムの神殿に向かい、礼拝をしよう。その思いはあるのです。とにかく礼拝をしよう、供え物をしておこう。お金を払えば、それらが達成されるという人々の心がありました。商人たちもその人々の心に乗っかかるように、神殿での礼拝を推奨し、祭司たちもこのシステムに準じていました。

そこで、主イエスはその彼らの心に怒りを顕にします。人々の心の中には神様との関係がなかったからです。彼らが関係を持っていたのは、お金でした。お金という自分への信頼です。このお金を払えば、動物が捧げられる、神様の罪の赦しが確保されると。その心に怒った。主イエスは言われます。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」商売の家、神殿の中を商いの場所にしたことというより、神様の御心を商売で計算し、これぐらい支払うことによって、神様の御心を、救いを確保できる、その価値を手に入れることができるという人々の思惑を指す言葉です。商売の家とする、それは自分の中で完結する自己義認です。ようは自分次第ということです。自分の中にあるものは、神様への信頼にとって変わるものがあるという傲慢さです。お金、名誉、地位を初め、自分の中で、自分で価値があると思っているもの。それが神様の御心と交換できるものだと思っているのです。今、主イエスが怒りを顕にしているのは、その人々の心、心の中にある彼らの神殿、宮なのです。

コリントの手紙Ⅰでパウロは「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(6:19)と言います。神殿は自分の中にある。実は自分自身の中にある神殿が問題なのです。そこに神様がおられるはずが、自分の中に優先してあるものは、お金であり、両替商であり、生贄の動物であり、自分が頼りにしてあるもので埋め尽くされているのです。神様への信仰の形が、それらのものに取って代わっている。自分の中にそのシステムが完成し、信仰心、宗教心というものが出来上がっている。また、教会というものが出来上がっているのです。これらのものは何と心強く見えるものでしょうか。これで神様からの救いは確保できているわけです。されど、パウロの言う自分の神殿とは、聖霊が宿っている神殿、あなたの目に付く心強いものがあるのではないという。なぜなら、それはあなた自身のものではないからだと言うのです。

自分の持ち物をいっぱいにして、安全を確保して、神様と向き合うのではなく、主イエスはまずそれらのものを追い払います。全部追い払います。神殿の中はめちゃくちゃです。動物も追い散らされ、お金はばらばら。自分が頼りとしていたものが壊されるのです。主イエスがひっくり返したものは彼らの心なのです。何かがあって、または何かをして神様と出会う、神様の救いに至ったのではなく、そういうものをすべて壊されたのです。あなたの存在そのものを壊したのではなく、真に私たちと出会ってくださるために、主イエスはよけいなものを取り除かれました。

実は持っていたというものはなかった。何ひとつなかった。神様の前に出るという時、私たちは裸であり、ありのままの私しかそこにいないのです。私たちが主によってよけいなものを取り除かれるのです。もはや自分の内から何かを取り出して、それを取引として、神様に向き合うということではないということです。自分の中には何もない。それどころか、何も誇れるものがない、裸の自分しかいないのです。この自分が罪人の自分の姿です。他に何もその罪を購ってくれるものはないのです。そこで主イエスが私たちに約束してくださったのが、十字架と復活の恵みなのです。何もないあなたのために、十字架が建てられます。この十字架があなたを救うものであると。神様が命をかけて、あなたを救うと約束してくださるのです。その約束を受けるために、まず私たちが空っぽになる。そして主が再び建てられると言った命の神殿に自分を委ねていくのです。

この宮清めの箇所は、宗教改革主日に福音書の日課として読まれる年があります。ルターの宗教改革は、それ以前の中世の改革とは質的に違ったものがあったと言われています。『ルターを学ぶ人のために』という本が数年前に出され、非常にわかりやすく、おすすめの本ですが、ここでルター研究所所長の鈴木浩先生は、次のように解説しています。「ルターの「宗教改革」(the Reformation)は、結果的に教会が前例のない規模で「改革」されたという意味では、中世後期の改革運動の継続と見ることもできないわけではないが、ルターの「改革」が“reform”(手直し)と言われるのではなく、大文字で“the Reformation”(再形成)と呼ばれているのは、それ以前の改革とは質的に違ったものがあったからである。それは、単に教会のあれこれの悪弊を修正し、あるべき姿に戻したという次元のものではなく、アメリカの教理史家ヤロスラフ・ペリカン(Jaroslav Pelikan,1923-2006)が「教会と教義の再形成」と呼んだ事態にまで及んでいたからである。」手直しではなく、再形成だと言われます。全くもってびっくり仰天です。根本的に立て直されるのだと。それは一旦壊されるということをも意味します。でも単なる、徹底した破壊ではなく、そこから再形成され、建てられていくのです。

私たちの中に残ったもの、いや新たに与えられたもの、それがイエスキリストの十字架と復活の恵みであり、これらを通して示される神様からの愛です。私たちはこの神様の愛によって自分の人生が再形成されていくのです。この神様との誠の関係を、ルターは聖書の御言葉を通して、私たちが知り、受け止めるようにと、私たちに伝えています。先ほど言いました宗教改革も、それは神様の業、私たちが再び神様との関係を見つめ直す、信仰の改革です。私たちはこの神様との関係の中に新たに生きていく。そして、自分を誇って、自分の内にある救いの確かさの内に、献金をし、奉仕をしていくのではなく、神様によって与えられた救いの恵みの内に、感謝して献金し、奉仕し、隣人を愛していくのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。