2018年3月11日 四旬節第4主日「死につつ、愛すること」

ヨハネによる福音書3章13~21節  藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」。今日の福音書で聞きましたこの言葉は、とても有名な聖句のひとつです。愛唱聖句として、非常に親しみを込めている方もいるでしょう。世というのは、この地上に生きる全ての人を指しますが、まずそれは自分自身に当てはめることができるかと思います。この私を愛するために、神様は主イエスをこの私にお与えくださった。私の状況や気持ちがどう変わろうと、私に対する神様の愛は変わることがなく、永遠であるということです。パウロはローマの信徒への手紙でこう言います。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38~39)私自身は、自分の状況や気持ちの変化で、神様の愛に結ばれようとしたり、離れようとしたりしてしまいますが、神様の愛は変わらず、この私を御心に留めておいてくださり、忘れることもなく、見捨てられることもないのです。

この変わらぬ永遠である神様の愛は、独り子、すなわち主イエスを与えてくださった愛であると言います。それはどのような愛であるかと言いますと、14節で「人の子も上げられねばならない。」と言われるように、上げられるということ、それは十字架に上げられるという意味で、十字架の死を通して示された私たちへの愛であるということです。神様が自らの命をもってして、私たちに命を与えた出来事、十字架の死が世への、ひとりひとりへの決定的な愛の恵みとなったというのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という信じる者というのは、この十字架の愛を信じて神様と共に生きていく者なのです。では、主イエスの十字架の死を通して示された神様の愛を知って信じるとはどういうことなのでしょうか。

このヨハネ福音書の3章の始まりは、夜に主イエスを訪ねてきたニコデモとの対話に遡ります。ニコデモはファリサイ派の人で、神様の教えを熱心に守り、聖書の知識も十分にあった人です。彼は主イエスの評判を聞き、主イエスの神様の御業のしるしに期待して、訪ねてきました。きっとすごいしるしを見せてくれるに違いないと。しかし、主イエスは彼に「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)と言います。彼は主イエスの言ったことを理解できず、こう言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(3:4)。このような具合に両者の間には大きなズレを感じます。ニコデモが期待するような神様のしるしを、主イエスはもたらそうとはしないわけです。ニコデモは終始、主イエスが言われる新たに生まれるということを理解できませんでした。

そして、今日の福音書の箇所に続くのですが、主イエスは新たに生まれるということを理解できないニコデモを戒めているのではなく、むしろこの新たに生まれるということについて、「人の子も上げられねばならない。」と言われました。新たに生まれる、その新しい命に与るということは、主イエスの十字架の死を通して与えられるものであるというのです。この「新たに」という言葉は、再び、とか、上からという意味があります。ニコデモが言う、「もう一度母親の胎内に入って生まれる」ということでもなければ、全く別の生物に生まれ変わるという意味でもありません。ニコデモはニコデモであり、わたしたちは私たちであるということです。

主イエスとニコデモ、神様とニコデモの間には距離がありました。ニコデモは主イエスがどのような御業によって人に救いを与えるかということを受け止めてはいなかったのです。彼はファリサイ派の宗教者であり、聖書の知識に富み、敬虔な生活を送って、自分は罪人と違って、神様に救われる人間であると信じていたでしょう。その自分のもっているもの、誇れるものによって、神様から愛され、救われると信じていました。しかし、そのことが両者の間に隔たりをもたらしていたのです。主イエスは人がもっているもの、誇れるもの、所有しているものではなく、むしろ何ももちえていない罪人を赦し、愛するために、十字架にかかって死なれるのです。主イエスの十字架の赦しと愛によって、神様と人の関係が回復し、人は再び神様と共に歩む道が新しく示されました。新たに生まれるというのは、主イエスの十字架によって示された神様の愛に与り、再び神様と共に歩んでいく新しい命に生きていくことなのです。

私たちが悔い改めたからではなく、またニコデモのような正しさをもっているから、神様が愛してくださっているのではなく、むしろそうできない自分のために、神様の方から命を投げ打って、私たちとの関係を回復し、共に歩んでいく新しい命の道を開いてくださいました。ただ、その真実の愛を知り、受け止めることが信じて生きていく者なのです。

主イエスは私たちを感動させ、恐れさせるようなしるしをもって、私たちを愛されたのではなく、死ぬことによって、すなわちそれらの誇るものをすべて失って、私たちを愛し、共に生きて下さる道を示してくださいました。それは私たちが互いに愛するということにおいても同じことではないでしょうか。相手を愛するということは、自分の誇れるものを通して相手を感動させるということではなく、相手の求めているもの、必要なものに耳を傾けて、それを与えていくために、むしろ自分の誇れるものを捨てて、相手に仕えていくことではないでしょうか。それが私にとっての死であり、しかし、死んで終わるのではなく、あなたが相手に与えた愛が残り、その愛によって相手が生きていくことにつながっていくのです。

同じヨハネ福音書で主イエスはこう言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12:25)これも有名な聖書の言葉ですが、死ねば、多くの実を結ぶ。と言われます。ご自身の十字架の死によって実りがもたらされるのです。この実りが、神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとりひとりへの愛でした。この主イエスの死を通って示された愛は、私たちの人生の片時も離れることのない全き愛であると言えます。たとえ苦しみの中にあろうと、挫折し、絶望の中にあろうとも、この愛から離されてしまうことがないのは、主イエスご自身がその只中に共にいてくださるからです。その痛み、苦しみをご自身の痛み、苦しみとして負って下さるからです。そのようにして死につつ、愛することによって、再び私たちは立ち起こされて、主イエスと共に生きていくのです。だから、死んで滅んだのではなく、愛が残ったのです。それが死に対する神の愛の勝利ともなりました。私たちが再び立ち起こされ、生きていくための神の愛は全ての人に今日も注がれているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。