2018年3月25日 受難主日 「目を覚まして祈る」

マルコによる福音書14章32~42節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 年度末の忙しさの中にあるかと思いますが、私たちは今日受難主日を迎え、イースターまでの一週間を受難週、または聖週間として共に過ごしてまいります。主イエスの受難と十字架への道を覚えつつ、それらの出来事はこの私のために起こった神様の救いの御業、愛の御業であったというということを受け止め、その福音を深く悟るために、歩んでまいります。それは喪に服すということではなく、祈りつつ、神様との深い交わりの時を大切に過ごすことを意味します。その主イエスの受難と十字架に至る長い箇所が本日の受難主日の福音書の日課となっていますが、今年は有名なゲツセマネの祈りから御言葉を聞き、受難週を歩んで行きたいと思います。

 ゲツセマネは、オリーブ山というオリーブがたくさん取れることで有名な山のふもとにあったと言われています。その意味は油絞りという意味で、オリーブの油を作る設備から、この名前がついたそうです。この場所はエルサレムの近くにあり、主イエスはこの時初めてここに来られたのではなく、度々祈りに来られていたそうです。しかし、今回は様子が異なります。主イエスがこの後、主イエスを裏切る者が来て、罪人たちの手に引き渡されるからです。しかも、その出来事を「時が来た」と言われます。時間軸としての時というよりは、定められた時という意味で、遂にこのことが起こるという意味です。このことというのは、主イエスが十字架につけられて死ぬということです。逃げて逃げて、とうとう追い詰められて、観念して、捕らえられてしまう、そういう逃亡生活の時間の終わりを意味しているのではなく、主イエスは最初から逃げも隠れもせず、定められた時がきたことを私たちに告げ、それに従うのです。主イエスはこれまで、弟子たちにご自身の受難予告を三回もされてきましたが、いよいよそのことが実現されていくのです。予告から、本編に入っていくのです。そのような意味合いをもつのが、このゲツセマネの祈りの出来事なのです。

 けれど、このゲツセマネの祈りから、主イエスが堂々と、雄々しく十字架の死に望まれたわけではないことを私たちは知ることができます。ここには、まず主イエスの苦悩と弱さがはっきりと描かれているからです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけの弟子を連れてきますが、主イエスはそこでひどく恐れてもだえ始めたと言います。もだえるというのは、ここでは一言で言えば、不安になる、孤独になるということです。孤独で不安の只中に置かれている、だから、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と、この3人にわたしから離れず、共にいてほしいと言われるのです。神の子である主イエスは想像もできないような姿でありますが、主イエスは真の人として、私たちと同じように、自らの苦悩と弱さをそのままにさらけ出すのです。

 そして、神様に祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」アッバというのは、お父さん、お父ちゃん、パパという小さい子が父親を呼ぶときの非常に親しみを込めた表現の言葉です。主イエスは神様に信頼して、アッバと言われるのです。そのお父さんなら、この杯という苦しみを、これから受ける十字架の死の苦しみから逃れさせてくださるはずだと願います。本当に神様が愛に満ちている方なら、この悲しみや苦しみから私を解放してくださるはずだという私たち人間の願いと重なるでしょう。しかし、主イエスの言葉はそれで終わらないのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と言われるのです。本当の願いは、自分の思う通りの願いが叶えられることではなく、神様の意志である御心が行われることであると言われるのです。アッバ、お父さんが私に大切だと思うこと、私が今やり遂げることを誠に教え、お示しくださいと言われるのです。子供のことを誰よりもよく知っているお父さんだからこそ、それがお父さんにはできるという信頼から来る祈りです。

 この祈りは主の祈りに通じています。私たちは祈る時に、自分の願望が叶うから、祈るのではなく、神様の御心を尋ね求めるために、そしてその御心が行われるという信頼をもって、神様に祈るのです。主イエスがアッバ、父よと呼びかけてくださったことは、愛する子供のために、お父さんが何もしないわけがないという思いからくる信頼感であると言えます。しかし、主イエスに行われる神様の御心は十字架でした。十字架の死を主イエスに与えるのです。それは何を意味するのでしょうか。

 ここには3人の弟子がいますが、主イエスが目を覚まして祈っていなさいと言われたにも関わらず、全員眠りこけてしまいます。それが三度も起こり、結局彼らは目を覚ましていることができませんでした。肉体的な疲れというよりは、彼らは主イエスと共にいることができなかったのです。ここで主イエスはペトロだけに語りかけます。しかし、ペトロとは言わず、シモンと言われます。これはペトロが信仰を告白する前の呼び名です。敢えて、その古い呼び名で呼んだのは、ここにはキリストに従う前のペトロがおり、現にキリストに従えない彼の姿がそこにあったことを示しています。主イエスは言います。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」心は燃えても、肉体は弱い。肉体が弱いということは、結局はしたくないという思いが根本にあるのです。このことは、すぐ前の、ペトロが主イエスから、鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないと言って、主イエスに最後まで従うことができず、主イエスから離れてしまう彼の心境を物語っています。しかし、ペトロは、主イエスに「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14:29)と言い、さらに「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)と率先して言いました。主イエスはこの彼の言葉を聞いた上で、「心は燃えても、肉体は弱い。」と言われたのでしょう。そして、この言葉は真実なものとなるのです。

 しかし、ちょうどその直後にあたるこのゲツセマネの祈りで、主イエスはペトロたちを叱責したのではなく、自らも苦悩と弱さの中に立たれます。それは十字架にかかることへの深い苦悩と悩みの中に立たされるのですが、その十字架とはこのペトロたちのための十字架であり、私たちのための十字架であるということです。それは、主イエスがご自分の苦しみに私たちを引き込んでいるのではなく、私たちの苦しみや悩みの中に身を置いてくださっているのです。身を置かれ、共に苦しんでいるのです。だから、主イエスは真の人として苦悩と悩みの中にあるのです。それらを克服して、十字架の死に望まれているのではなく、むしろその苦悩と弱さのままにあっても、絶えず父なる神様が共にいてくださり、御心を成し遂げてくださる信頼から、その道を自ら突き進んで行かれるのです。だから、弟子たちに目を覚まして祈りなさいというのは、単に寝ないでずっと祈り続けなさいと言っているのではなく、目を覚ましてというのは、父なる神様の御心を求め、委ねて祈りなさいと言っているのです。

 さらに、それでも目を覚まして祈ることができなかった彼らの弱さの中に、キリストは立たれるのです。彼らを見捨てることはなかったのです。この後、キリストの十字架への道の中で、弟子たちの不信仰な物語が続いてまいります。ペトロは主イエスから離れ、不甲斐なく、弱い自分に涙します。そこで弱さを知らされ、挫折します。自分の罪を思い知らされます。その罪の只中に、キリストの十字架が立ち、その罪が赦されるのです。ペトロや弟子たち、私たちひとりひとりをどのような時にも愛し、受け入れ続けてくださっている十字架の救いの御業が起こされる。そこに向かって、主イエスは歩まれていきます。この受難週を過ごす私たちは、ただこのキリストを、私たちの弱さと苦悩の中にたち続けてくださるキリストを仰ぎ見て、祈りつつ、歩んでいくのです。

 カトリック教会の晴佐久昌英神父が、こういう詩を作っています。「病気の時は、恵みの時」というタイトルの詞です。一部分読みます。
「病気になったらどんどん泣こう/痛くて眠れないといって泣き/手術がこわいといって涙ぐみ/死にたくないよといってめそめそしよう/恥も外見もいらない/いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て/かっこわるく涙をこぼそう/またとないチャンスをもらったのだ/自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを・・・病気になったら安心して祈ろう/天にむかって思いのすべてをぶちまけ/どうか助けてくださいと必死にすがり/深夜ことばを失ってひざまずこう/この私を愛して生み慈しんで育て/わが子として抱きあげるほほえみに/すべてをゆだねて手を合わせよう/またとないチャンスをもらったのだ/まことの親に出会えるチャンスを/そしていつか病気が治っても治らなくても/みんなみんな流した涙の分だけ優しくなり/甘えとわがままを受け入れて自由になり/感動と感謝によって大きくなり/友達に囲まれて豊かになり/信じ続けて強くなり/自分は神の子だと知るだろう/病気になったらまたとないチャンス到来/病のときは恵みのとき」
病気になったら、自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスであり、まことの親に出会えるチャンス、機会であり、好機であると言われます。誰しも、望んで病気にはなりたくありません。しかし、病気から逃れることはできませんし、病気自体は悲しみであり、苦しみであります。安易な慰めも受け止めることができないほどの辛い病の苦しみがあります。しかし、その時、弱っていて何もできない自分が、神様と出会い、神様と深く関わる時が与えられ、神様の愛する子供として、神様の愛を知ることができる。周りの人の愛を受け止める側につく。それを受けるチャンスだと言われる。病気だけではなく、様々な弱さを抱える私たちが、その弱さを知り、神様との交わりを大切にするチャンスがあるのです。それが可能なのは、私たちの弱さの中に、キリストから来てくださるからです。

 パウロはコリントの手紙でこう言います。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9~10)弱さ自体は惨めですが、この弱さによって、私はキリストを知る。このキリストを知るがゆえに、私は強いのだと言うのです。

 このゲツセマネの祈りを含め、主イエスの受難と十字架に至る出来事の根本的な目的は神様の愛に根ざしているということです。この神様の愛が根っこにあり、また私たちの歩みの土台となっているのです。だからこそ、私たちは弱さを受け止め、自分の思いをすべてぶつけつつ、アッバ、父よと、信頼のうちに神様の御心を祈り求めることができるのです。この信頼の内に、イースターの時に備えて、この受難週を歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。