2018年4月15日 復活後第2主日「神のもてなし」

ヨハネによる福音書21章1~14節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」と使徒言行録には記されています(1:3)。弟子たちは復活の主イエスに出会い、主イエスから宣教の使命を受けますが、すぐに宣教の旅に出たわけではありませんでした。40日間、彼らは復活の主イエスと共にいました。主イエスから神の国について説教を聞き、主イエスと生活を共にして交わり、主イエスに従って生きていくことを体と心で体験していったのだと思います。この彼らの体験を通して、キリストの体である教会が作られていき、復活の主イエスに養われる群れが誕生しました。彼らは40日間、伝道についてのノウハウを主イエスから教わったのではなく、遣わされて伝道していくことの厳しさを教えられつつも、伝道をしていく時でも、どのような時にも、主イエスが生きて自分たちと共にいてくださるということを味わって過ごしました。「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、」と言うように、主イエスは弟子たちと共に生き、弟子たちはこの主イエスの復活の命によって養われ、癒され、もてなされていったのです。自分たちの命は、人生はこの主イエスから与えられるものであり、主イエスによって新しい一日が始まる。自分たちはこの主イエスに結ばれて、歩んでいくのだという思いを大切にしていったことでしょうか。現代のキリストの弟子である私たちも、この主イエスに結ばれて歩んでいるのです。

 さて今日は、復活の主イエスがペトロたちの故郷であるティベリアス湖畔に顕れた復活物語から御言葉を聞きました。「弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」と言います。今年はマルコによる福音書16章から、一度目、二度目の物語を聞いてきました。婦人たちは恐れおののき、弟子たちは復活を信じることができず、主イエスからその不信仰と頑なな心を咎められたという復活物語を聞いてきました。この3度目の復活物語においては、恐れや不信仰ということはもう描かれていませんが、復活の主イエスがわからなかったという弟子たちの姿が描かれています。ここで弟子たちは、もう一度主イエスと出会い、主イエスの弟子になったときの体験をするのです。

ティベリアス湖畔とはガリラヤ湖のことです。ペトロが漁師として暮らしていた故郷です。ここでペトロは主イエスと出会い、弟子になりました。その一番弟子であるペトロが「わたしは漁に行く」と言い、他の弟子たちもついていきます。他の弟子たちも共にいるわけですから、解散して、失意の内に故郷に帰ったということではないでしょう。ペトロたちは日常生活をするために帰っていきました。そしてガリラヤ子で漁をしますが、夜通し漁をしても魚は一匹もとれませんでした。そして、夜が明けると、岸に主イエスが立っていました。主イエスは彼らに食べ物があるかどうか尋ね、舟の右側に網を打ちなさい。と言います。まだ主イエスに気づいていない彼らがそのように網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったと言います。そこで主イエスだと気づいた弟子がいました。それを聞いてペトロが真っ先に湖に飛び込んで、岸に向かい、弟子たちは魚を引き上げるので精一杯でした。船は陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったと言います。二百ペキスとは約90メートルです。よく目をこらせば見える距離ですが、見えていなかったのか、彼らはその距離感で主イエスだと気づいたのではなく、かつて自分たちに起こされた大漁の奇跡をもう一度体験して、主イエスだと気づいたのです。

そして彼らが陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚が焼かれ、パンもありました。主イエスが食卓を整えられ、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われて、彼らを招きます。一同、もはや誰も尋ねるまでもなく、主イエスがここにおられ、自分たちのために食事を作って、もてなしてくれていることを体験しました。

弟子たちは夜通しかけても魚が一匹も取れず、その厳しさと虚しさの中にあって、疲れ果てていたのでしょう。これはこれから彼らが体験する伝道の厳しさを表し、また私たちひとりひとりが体験する人生の厳しい歩みでもあるかと思います。夜通しかけても、何も得られない。そういう厳しい現実の中で、私たちは体の疲れだけでなく、心の疲れをも体現します。また、これから弟子たちが命懸けの伝道をしていく姿を思い浮かべますと、疲れ以上に、自分たちの命の存続にも危機的な状況が迫っていることがわかります。厳しい迫害の只中にあって、身も心も疲れ果て、命の危機が迫っている。現代みたいに医療が発達した時代ではありませんし、物に溢れている豊かな時代でもありません。その只中で彼らが伝道し、教会を作っていくことができたのは、自分たちの疲れを誠に癒し、慰め、命を与えてくださっているものを受け取っていたからでしょう。夜通しかけても魚がとれないその厳しさと虚しさの中に、何もありませんと言わざる負えないその空の中に、復活の主イエスが来られて、ご自身が生きて、弟子たちを養い、もてなしを受けて、主イエスから命をいただいている。朝の食事を整えて与えてくださるように、新しい一日が主イエスによって与えられている幸いを、弟子たちは共に喜び、感謝の内に、主イエスと共に歩んでいかれました。

朝の食事、一日のエネルギーとなる糧を毎日いただいて、そこから新しい一日が始まっていきます。これは私たちの日常の中で起こされていることであって、特別な出来事に限定されるものではありません。主イエスの弟子とは、主イエスによって養われる共同体であり、主イエスの養いの中で、私たちは遣われていき、新しい歩みが始まっていくのです。

これからいただく聖餐の恵みも、主イエスから与えられる復活と命の食卓の恵みです。私たちに安らぎを与え、主が共にいて、私たちを再び立ち起こしてくれる命の食卓です。またこの季節に、イースター礼拝に来られなかった兄弟姉妹の家を訪問し、共に聖餐の恵みに与りながら、私たちが主に養われる群れとして、主に結ばれて、共に歩んでいることをも実感し、受け止めることができたのだと思います。

40日間、主イエスは弟子たちの前に顕れ、ご自身が生きていることを示されていきました。私は今も生きて、あなたがたを招き、養い続けているという体験を弟子たちにさせ、弟子たちはそのことを大切にしていきました。神のもてなしを受け、豊かに育まれて、弟子たち、そして私たちは遣わされて生きていくのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。