2018年4月22日 復活後第3主日「生き様が残る」

ヨハネによる福音書21章15~19節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 復活の主イエスはペトロたち6人の弟子たちに顕れ、大漁の奇跡を通して彼らは主イエスだと気づき、そして主イエスから朝の食事を与えられました(ヨハネ福音書21:1~14)。弟子たちはどれほど主イエスから慰められたことでしょうか。彼らが夜通しかけても魚がとれなかった現実は、宣教の厳しさを描いています。その厳しい現実の暗闇の中に、復活の主イエスが顕れた。その暗闇に光が差し込むように、夜は明けて、主イエスは復活して自分たちと共に生きて歩んでいて下さるということがわかった。自分たちの暗闇に復活の光が輝き、弟子たちはその光である主イエスに養われ、慰められていることを受け止めたのです。

 主イエスが与えてくださった朝の食事、その復活の命の食卓を喜びの内に終えた後、主イエスとペトロの会話が始まります。その背景にはこういう礼拝堂という場所ではなく、週報の表紙にある絵のように、波の音が木霊するガリラヤ湖の浜辺で、他の弟子たちに囲まれながら、主イエスと向き合っているペトロの姿があります。ここで主イエスはペトロに3度自分への愛を確かめ、私の羊を飼いなさい、世話をしなさい、そして私に従いなさいと言います。さらに19節で「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」と彼の死の姿、予告までも主イエスに知られています。ペトロはこの後、弟子たちと共に聖霊に満たされて、宣教活動に従事し、エルサレム教会のリーダーとして中心的な働きを担っていきます。最後は、主イエスと同じように十字架につけられて、しかも主イエスと同じ向きで十字架にかかるのは恐れ多いと訴えて、逆さまにされて十字架にかかって殉教したと言われています。

 ここにはペトロの生き様すら描かれています。主イエスはペトロのことをよくよくご存知なのです。その生涯の終わりの時まで、既に見据えて彼の生涯全体に語りかけておられるようです。ここで主イエスは他の弟子たちとは違うペトロへの役割と覚悟を語られます。主イエスは彼にこう言われます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と。この人たち、他の弟子たち以上に、わたしを愛しているか。他の者がわたしを愛する愛以上に、あなたは私を愛しているのか。愛が深いのかと言われるのです。さらに私を愛しているかという問いが全部で3回も言われますから、愛の深さをペトロに確認していると受け止めることができます。

 誰よりも私を愛しているか。そう主イエスから聞かれたとき、堂々と自信をもって私はこの人たち、あの人たちよりもあなたを愛して生きていますと言えるでしょうか。または主イエスでなくても、家族や友達などに、私は誰よりもあなたのことを一番に思っている、一番愛をもって接していると言った経験がおありでしょうか。その時、自分の中にその人を思う気持ちが他の誰よりも負けることがない何か特別な思いや感情を持っていればそのように言うことができるのかもしれません。他の誰よりもあなたのことを知っている。あなたのことを気にかけ、あなたのために尽くし、時間を費やしてきた。そのようなものを確信しているかいないかで、答えは変わってくるかもしれません。しかし、それは自分自身の中に根拠をもっている相手に対する愛であって、相手の中に根付いている愛であるとは言えないでしょう。私は誰よりもあなたを愛していますと言う言葉を相手は期待しているかもしれませんが、しかしそれはどこまでいっても、自分の中にある愛の確かさであって、相手の中に根付いている愛ではないのです。敢えて言えば、自分の愛を相手に正当化しているとも言えるのです。

 相手への愛が自分の中にあるものだと思い込む以上、その愛が本当の意味で相手に向けられているとは言えないのかもしれません。自分の只中にある相手への愛の確かさではなく、相手の只中にある相手への自分の愛がそこに根付いているかどうかなのです。

 ペトロはどうだったのでしょうか。主イエスから私を愛しているかと言われた時、ペトロの只中に主イエスへの愛の確かさが芽生えていたのでしょうか。ペトロはこう答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」ペトロの中には主イエスを愛している確かさはないのです。愛する自身があるから愛せます、または愛せない不安があるから愛せませんと、自分の中における相手への愛のさじ加減ではなく、私のあなたへの愛は、主イエスあなたの只中にその確かさがあり、根拠がありますとペトロは主イエスに応えたのです。ペトロ自身の中に、主イエスを愛する自信や根拠は全くないのです。主よ、私のあなたへの愛は、あなたの中にしかない。あなただけがそのことをご存知であると。

 思い起こせば、ペトロは過去に3度、主イエスを愛するどころか、拒絶した体験があるのです。ヨハネ福音書13章36節から38節で「シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と主イエスはペトロにはっきりと言われているのです。そして、18章でこの主イエスの言葉が明らかになります。ペトロはこの時、自分の只中で主イエスを愛し、どこまでも従って行けますと主イエスに言いましたが、主イエスはペトロのことを既にご存知でした。今、十字架の死に向かっていく自分の後にペトロはついてくることができないのだと。ですから、ペトロは主イエスに後に続く、死を恐れたと言えます。死の恐怖の前に、たじろぎ、もう一歩もついていくことはできなくなった。主イエスを愛し抜くことはできず、裏切ってしまった自責の念があったでしょう。そんなペトロが、そんな人が自信をもって、後であなたのことを誰よりも愛していると言えるでしょうか。むしろ、誰よりもあなたのことを愛せなかった自分がここにいますとしか言えないのではないでしょうか。それが正直な気持ちだと思います。

 ではなぜ、ペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言えたのでしょうか。それは自分自身の中に愛の確かさや不確かさを抱いたのではなく、主イエスの只中に、自分への愛を見出すことができたからでした。その愛とは、主イエスの愛を拒絶し、主イエスに従うことができなかったこのペトロという存在を受け止め、知っていてくださるものです。自分の中には主イエスを愛する愛は全く乏しい。とてもではないけれど、堂々と主イエスを愛するなどとは言えないけれど、そんな乏しい愛しかもつことができないこの私を受け止め、赦してくださっているあなたの私への愛はどれほど深いものなのか。あなたがそのように私を深く愛してくださっているから、私ではなく、あなたの只中に愛の確かさがあるから、私はあなたを愛することができる。愛することが赦され、受け止めてくださっているとペトロは答えることができたのです。

 ヨハネの手紙14章7~11節にこうあります。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
愛は神から出るものであり、神は愛であると言います。だから、ペトロが、私たちが主イエスを愛することができるのは、主イエスの只中に愛があるからです。主イエスが愛そのものだからです。私たちは主イエスを愛することができるのです。その確かさの内に、私たち一人一人の人生が立てられ、守られているのです。

 主イエスはペトロに羊を飼い、世話をしなさいと言われました。このペトロを礎とする教会の群れが誕生していきます。その群れは互いに愛し合う群れです。自分たちの中に互を思いやる愛があるから、愛し合うことができるのではなく、私たちひとりひとりを愛し、愛の源である主イエスがこの群れを導き、支えていてくださるからこそ、愛し合うことができるのです。ペトロはこの群れを飼い、養うために命をかけました。それはもはや自分自身のため、自分の中にある命ではなく、主イエスの愛の中に自分の命があると確信したからです。

 私たちはペトロのように、迫害を受けて殉教するということはないかもしれませんが、私たちの命は主イエスの十字架と復活によって明らかにされた愛の中にあるのです。それはたとえ死の只中にあっても、私たちを切り離してしまうものではなく、その只中にあっても結びつけていてくださるキリストの愛なのです。

 このキリストの愛の只中にあって、私たちは主を愛し、主に委ねられた羊の世話をし、互いに愛し合いながら、主イエスと共に歩んでいくのです。キリストに基づく私たちの愛がまし加えられていくことを願い、祈りつつ、福音を大胆に宣べ伝えて、歩んでいきましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。