2018年4月29日 復活後第4主日「つながり」

ヨハネによる福音書15章1~10節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音書は有名なぶどう木のたとえ話です。主イエスはご自身のことをぶどうの木と言われ、そのぶどうの木である主イエスにつながっていなさいと繰り返して言われています。それも、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と主イエスは言われます。ぶどうの木である主イエスに繋がっていなければ、何もできない、何一つできない。それは、人間の偉業や達成感のことを指しているのではなく、何一つ神の業ではない、神の業とはならないと言えることでしょう。

 あなたがたは何もできない。このことを弟子たちに言われました。弟子たちの姿は今日の私たちの教会の姿です。キリストを離れては何もできないということは、弟子たちは、そして教会はキリストと共に生きている、キリストを離れては生きられないということです。キリストとひとつであるということです。

 主イエスはここで「ただぶどうの木」と言っているわけではなく、「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。ぶどうはオリーブと共に、パレスチナ地方も至る所で栽培されていた植物で、彼らユダヤ人たちにとって身近にあるものでした。そしてそのぶどうの木はイスラエルに例えられてきましたが、その木からはすっぱいぶどうの実がなり、イスラエルが神様の御心に生きてこなかったことが明らかになりました。

 主イエスこそがまことのぶどうの木であると言われる時、イスラエルという神の民そのもの、またキリスト者そのものがぶどうの木という恵みでもなく、また救われているということではなく、そのまことのぶどうの木であるこのキリストにつながることによって、豊かなぶどうの実を結ぶ、その恵みに与るというのです。ぶどうの木から、樹液をいただいて、それを必要な養分とし、そして実を結ぶことができる。ぶどうの木と枝は切り離せるものではないのです。

 主イエスは5節で「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言いつつも、2節では「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とも言われ、ただつながっていれば、実を結ぶとは言われず、つながっていても実を結ばない枝があるということを言われます。何か矛盾しているようにも感じます。

 この「つながる」という言葉は「留まる」、とか「宿る」という意味の言葉でもあります。ただ抽象的に人との繋がりを感じるということではなく、その人の中に留まるということです。ぶどうの木である主イエスに留まっておきながら、実を結ばない枝とはどういうことなのでしょうか。留まるということの本質を見失っている私たちの姿が問題なのでしょうか。

 フィリピの信徒への手紙1章29節でパウロがこういうことを言っています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」キリストとひとつであるということは、ただ言葉で信じるということだけではなく、また信じることだけが恵みではなく、キリストのために苦しむことも恵みであるというのです。苦しむことがなぜ恵みと言えるのでしょうか。

 主イエスに繋がっているから、苦しむことはない、苦しみを経験しなくてすむ、そのような恵みを述べてはいません。また、苦しみ自体が恵みであるとも言っていません。苦しみは不幸であり、果てには神様からの裁きであるとも受け取るでしょう。苦しみに対して、神様の慰めを求めるのが私たちの姿です。しかし、ここではキリストのために苦しむことは恵みとして与えられているというのです。キリストを信じ、キリストと共に生きるが故に巻き起こる、苦悩や悩み、苦しみがあります。でもそれらは、意味のないものではなく、恵みである、実りをもたらすものであると言います。

 キリストのために苦労し、悩みが尽きない現実にあって、でもそれは無意味なもの、むなしいものに終わらず、そこから恵みが満ちていることをパウロは告げるのです。キリストを信じ、留まるがゆえに、私たちは喜びを経験しますが、同時に苦しみをも経験します。キリストの故に、時間を使い、労力を使い、疲れを知る。でもその苦しみを不幸とは言われない。喜びという恵みがあり、実があり、苦しみという不幸があり、実りが出ないとは言わないのです。この苦しみを避けて喜びだけを求めた結果による実りではなく、苦しみを通して与えられる恵みを、パウロは見据えていたのです。

 主イエスはまことのぶどうの木であり、私たちはその木に連なる枝です。だから、喜びも苦しみも共に経験します。実を結ぶための養分、恵みの基は、枝である私たちの経験ではなく、また私たちの思いや行動によるのではなくぶどうの木にあるのです。喜びだけでなく、苦しみをも経験する。でもその中にあっても、実は結ばれる。実は結ばれるから、枝である私たちの命は、このぶどうの木であるキリストから頂いているものなのです。

 キリストを信じ、仕えるがゆえに、苦しみを経験することも多いですが、キリストはその苦しみの中にもつながっている、留まっていてくださいます。苦しみの中においても、神様は新しい実りをもたらそうとしている。苦しみを通して、その恵みに気づかせてくださる。わたしに繋がり、どのような時にもわたしの実りを受け取りなさいと主は導いて行かれるのです。

 ルターの日々のみことばという本があります。一日ずつ、聖書の言葉から、ルターの黙想の言葉が書かれているのですが、このぶどうの木の箇所で、ルターはこういうことを言っています。少しご紹介します。
「このキリストのうちに、信仰によって根をはり、樹液がぶどうの実へと伝わり、私は主に似たものとされ、今やキリストとひとつの性質、ひとつの本質に属するものとなります。このキリストにより私は実を結びますが、その実は私自身のものではなく、ぶどうの木のものです。このようにしてキリストとキリスト者はひとつのパンとなり、ひとつのからだとなり、本来の実を結ぶようになります。それは、アダムの実でも、自分の実でもなく、キリストの実です。」

 本来の実を結ぶのだと言われ、それは私自身の実ではなく、キリストの実であると言われます。キリストの実という神様の御心であり、恵みであります。私たちはそのキリストの実を実らせていただき、その恵みに与りながら、同時にその神様の栄光を表していく器として用いられていくのです。私たち人間の実り、成功体験か、失敗体験かということではなく、キリストと共に歩み、生きて様々な出来事を体験して実っていくキリストの実という神様からの恵みを恵みとしていただいている。それが私たちへの実りとなっているのです。

 どのような状況にあろうとも、キリストから湧き出るキリストの実は、私たちへの実りとして与えられています。私たちの歩みが、生活が、このキリストからでる真の実りによって、実り多きものとなる。その実りの恵みは、キリストを離れては、御言葉を離れては気づけないものなのです。わたしを離れては、あなたがたは何もできない。その真実を知っているからこそ、キリストの方から私たちに繋がっていてくださる。留まりなさいと招いていてくださる。この招きの声に私たちは応答して、キリストと共に生きていくのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。