2018年5月6日 復活後第5主日「互いに愛し合いなさい」

ヨハネによる福音書15章11~17節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 「互いに愛し合いなさい」。これが弟子たち、そして私たちへの掟であり、命令であると主イエスは言われます。このヨハネ福音書は弟子のヨハネ、またはヨハネが属する共同体、ヨハネの教会が書いたものであると言われています。そのヨハネは高齢まで生き、晩年はエフェソで活動していたと言われます。そのヨハネについて、聖ヒエロニムスという人がこういうことを言っています。「彼があまりに年老いて説教することができなくなった時に、ヨハネは集まってきた人々にただ「互いに愛し合いなさい。それが主の命令であり、もしあなたがたがそれを守れば、それだけで十分である」と」。説教にはならなくても、これだけは伝えなくてはならない最も重要なことが「互いに愛し合いなさい。」この主の掟であるというのです。

 それこそ、ヨハネの遺言とも言えるこの「互いに愛し合いなさい」という主イエスの掟、命令は主イエスに連なり、主イエスの道に生きる者の定められた道筋であります。教会はこの掟の上に成り立っています。実はこの掟は、前の13章で既に主イエスが弟子たちに言われたことでした。それは弟子たちの足を洗った洗足の出来事で言われた言葉でした。互いに愛するということは、足という最も汚れたところを洗ってあげるようにして、その人に仕えていくことであるということです。その弟子たちの汚れた足を最初に洗ってくださったのは主イエスです。主イエスが彼らの足という汚れたところに身を置いて下さり、それを洗ってくださったのです。まず主イエスが彼らに仕えて洗ってくださった。そして、今度はあなたがたが互いに仕え、洗い合いなさいと言われます。その姿の中に互いに愛して生きていく主イエスにある共同体の姿が生き生きと描かれております。「互いに愛し合う」、身分や世代を超えて互いに関わり、相手の汚れを批判して自身は清さの中に身を置くのではなく、むしろ相手の汚れの中に身を置いて、それを洗って清めていくのです。

 そして、今日の福音書の箇所でもう一度主イエスはその掟を繰り返されています。このことを先週の福音書の箇所でありますぶどうの木の例え話に続いて語られました。互いに愛し合いなさい。ということの前に、わたしがあなたがたを愛したように、と主イエスが言われるように、神の愛が人間に先行して語られています。この神の愛について、今日の第2日課であるヨハネの手紙1にこう書いてあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(4:10)私たちへの愛のために主イエスが来てくださった。それも主イエスはわたしたちの罪を償ういけにえとして来られたと言います。罪という汚れを身代わりに帯びて、そのことによって私たちが罪を赦され、清められた。そこに神の愛が形となって顕されているのです。つまり、主イエスは命をかけて私たちへの愛を全うされたということです。

 その命をかけるということを、13節で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という言葉をもってして示されています。そして、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と続いて言われました。あなたがたはわたしの僕ではなく、友であると。その友であるあなたがたのために、わたしは命を捨て、わたしの愛を全うするというのです。主イエスが私たちの友となってくださり、主イエスの命に生きるものとされているのです。

 主イエスが言われる友とは、互いに愛し合う関係によって生きる者であるということです。友として互いに愛し合う。そのためには、自分の命を捨てることでもあり、それ以上に大きな愛はない、最上の愛であると言われます。この友という言葉ですが、フランシスコ会訳という聖書では、愛する者と訳されています。元の言葉はフィロスというギリシャ語の言葉で、愛という意味から来ているのです。フランシスコ会訳は13節をこう訳しています。「愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」。当時のギリシャ人にとって、友と呼べる存在は、理想の存在であったと言われています。友情というものもそこから生まれたのでしょうが、友とは、肩書きとか、立場上における人と人との関わりを超えて、何のしがらみもなく、また関わりにおける利害関係などを一切抜きにして関わっていける存在。それを友と呼び、大切な愛する存在として認識していたようです。ですから、友とはすなわち愛する者であるということ。友情、友人関係とは、互いに愛し合う関係であるということです。

 現代の私たちは一生の友人という言葉を使うかと思います。同じ学校、職場に属さなくなっても、関わりを持ちづけている存在。そういう存在がどれだけいるのでしょうか。友人という概念も時代によって変わって来ているのでしょうが、今日友人であったものが、明日には敵になっているかもしれないという私たち人間の現実問題もあります。友人同士、気の合う仲間だけで、楽しいことを過ごしていく。それが気楽であると言えるかもしれませんが、それがここで言われる主イエスの互いに愛し合う関係ということではないのです。

 わたしがまずあなたがたを愛したと言われるように、主イエスが私たちの友となって、私たちを愛する者として関わってくださった。主イエスが私たちと同じところに身を置いてくださったということです。私たちの誰かが神様の友としてふさわしいからということではなく、むしろ全くふさわしくもなく、友に選ばれないようなこの私が、友とされたのです。わたしの汚れ、私の不完全さの中に主イエスが身を置いて下さり、最後には命を捨てて、私への愛を全うしてくださった。信じることができなかった私に赦しを与えて下さり、赦すことの愛を示してくださいました。ただ僕として、私たちが神様から押さえつけられるような関係ではなく、友として、愛する者として受け止めてくださっている。だから、私たちは主に信頼し、安心して主に祈ることができるのです。友としてくださった私たちの声に、叫び声に耳を傾けてくださり、私たちの弱さや小ささ、汚れをも受け止めてくださり、御心を示して導いてくださるのです。単に平等な対等関係になったというのではなく、私たちの友として、私たちの人生の只中に共にいてくださり、共に歩んでくださるのです。

 主イエスが私たちの友となってくださり、私たちも互いに愛し合うものとしての友を大切にしていく群れであります。ひとりひとりがキリストに連なる者として、相互の交わりを大切にしていくのです。しかし、私たちは皆異なるものであり、時には争いが起こり、わかり合えないこともたくさんあります。信頼していたのに、裏切られることもあります。教会の世界も例外ではありません。分裂や対立の歴史があるのです。

 既に亡くなられましたが、カトリックのシスターの渡辺和子さんがこういうことを言っています。「人間は決して完全にわかり合えない。だから、どれほど相手を信頼していても、「100パーセント信頼しちゃだめよ、98パーセントにしなさい。あとの2パーセントは相手が間違った時の許しのために取っておきなさい」といっています。人間は不完全なものです。それなのに100パーセント信頼するから、許せなくなる。100パーセント信頼した出会いはかえって壊れやすいと思います。「あなたは私を信頼してくれているけれども、私は神さまじゃないから間違う余地があることを忘れないでね」ということと、「私もあなたをほかの人よりもずっと信頼するけど、あなたは神さまじゃないと私は知っているから、間違ってもいいのよ」ということ・・・そういう「ゆとり」が、その2パーセントにあるような気がします。」(渡辺和子著『置かれた場所で咲きなさい』137~138ページ)
残りの2パーセントは疑いなさいと言っているのではなく、赦すために取って置きなさいと。100パーセント信じて、裏切られた瞬間にその人との関係が終わるのではなく、裏切られる展開になっても、取っておいた2パーセントを使って、赦し、その人との関係を保ちなさいということでしょう。相手もそのようにしてくださるからです。

 本当に私たちは不完全です。「互いに愛し合う」ことのあやふやさをどれほど経験してきたことでしょうか。お互いの為に、全体のためにやってきたのに、裏切られた。または自分が裏切ってしまった。このことを繰り返してきたかもしれません。しかし、主イエスが命をかけて私たちの友となってくださったところに、最上の愛が明らかにされ、赦すことを教えてくださいました。赦されて、赦して、もう一度、その関係の中に生きていく。主イエスがそのことを望んでおられます。「互いに愛し合いなさい」今一度、この主の戒めを、愛の戒めとして、喜びをもってして、私たちは受け止め、歩んでまいりたいと願います。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。