2018年5月20日 聖霊降臨祭「わたしたちの弁護者」

ヨハネによる福音書15章26~16章4節a  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

共に集められて、ペンテコステ、聖霊降臨の恵みに与れましたことを感謝いたします。今日の第2日課である使徒言行録2章に聖霊降臨の出来事が記されています。聖霊に満たされた使徒たち、すなわち主イエスの弟子であるペトロたちは、あらゆる国の言語で神の言葉を語りだしたと言います。それは弟子たちがバイリンガルになったということではなくて、民族や文化、歴史といった垣根を超えて、それぞれの民族や文化の中で同じ神の言葉、また同じ民族であっても、それぞれの世代を超えて、神の言葉を聞くことができたということです。

 教会の歩みはこの聖霊降臨の出来事において始まりました。聖霊のお働きによって教会は神の言葉を語り続ける信仰の共同体です。約2000年の教会の歴史は、この神の言葉に基づいたものであり、神の言葉に生かされ、励まされ、また慰められ、そのようにして教会は時代に沿って、礼拝をはじめとする様々な活動を通して神の言葉を証し続けてまいりました。この六本木ルーテル教会は今年で宣教70周年を迎え、今年の9月30日に記念礼拝を執り行います。70年の歴史を振り返って、主が私たちと共にいてくださり、この教会を守り、支えてくださったことに感謝しつつ、この教会の設立に向けて、魂を燃やして、宣教活動に従事してくださったミズーリシノッドの宣教師の方々を始めとする、信仰の伝達者のお働きを覚えて、この記念の時を迎えたいと思います。それぞれの方が、いろんなやり方で神の言葉を証し続けてきました。その神の言葉を、聖霊のお働き、聖霊の助けによって、今度は私たちが次の次世代に繋げていくために、またここから、教会の歩みが新しく始まっていくのです。

 今日の福音書の中で、この聖霊について、主イエスは15章26節でこう言われます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」弁護者、真理の霊と言われる聖霊はわたしについて証しをする。わたしというのは主イエスのことですから、この聖霊によって、私たちは主イエスと出会い、主イエスを知るということであります。パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰの12章3節で「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」と言っている通り、この聖霊が主イエスを証しするのであって、私たち人間の働きや姿そのものからではなく、この聖霊のお働きに満たされて、神の言葉を語るところにキリストは明らかにされるのです。

 同じヨハネ福音書の中で主イエスはご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われました。主イエスにおいて、主イエスの姿と歩みにおいて真理がそこに明らかにされているのです。その真理とは神が私たちひとりひとりを訪ね求め、ありのままにひとりひとりを愛し、恵みを与えていてくださるということです。福音書における主イエスの歩みとそのお姿はそのことに尽きるかと思います。聖霊において語られる神の言葉はこのキリストを証しするのです。だから、私たちはこのキリストが何をされたのか、人々とどのように歩まれたのかということを聖書から聞き、このキリストに従って、歩んでいくのです。

 主イエスはそのようにして真理を告げ、救いを完成させるために最後は十字架にかかって死なれ、三日後に復活され、神の御心という真理を明らかにされました。十字架の死という受難を避けて、神の言葉を成し遂げたのではなく、それを通って、復活の命という新しい命を明らかにされたのです。

 それが弟子たちに、私たちに示されている真理ですが、主イエスが聖霊について語られた後、弟子たちは主イエスのもとを離れさり、受難を避けていきました。それは恐ろしかったからです。主イエスを捕らえるものたちは、自分たちの真理をもってして、主イエスを裁きました。主イエスと一緒にいた自分たちも裁かれてしまうと思い、弟子たちは恐れたのです。受難の意味がわからず、そこに神の真理を見出すことができなかったからです。

 主イエスを捕らえたものたちや弟子たちと同様に、私たちも真理が見えておらず、真理を恐れるものではないでしょうか。様々なニュースが流れています。疑惑やスキャンダルが報じられていますが、真理はどこにあるのかわかりません。真理となることを恐れて、それを隠そうと隠蔽する人もいます。教会も例外ではないのです。時にキリストから離れ、真理を覆い隠そうとしてしまう姿がいつでもあるのです。

 私たちのそのような弱さがあることを主イエスはご存知でした。だから、この心理の霊である聖霊について、主イエスは弁護者であると言われたのです。自分に代わって真実を明らかにしてくれる弁護人です。助け主とも訳されているように、これは呼ぶとそばに来てくれるという意味の言葉です。助けてくれる存在です。この弁護者が誠に神の言葉を明らかにしてくれるのです。

 マタイによる福音書10章で、主イエスは弟子たちに宣教活動における容赦ない迫害の実体を告げますが、その厳しさの中でこういうことを言われました。「また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(10:18~20)極限の中で、この聖霊は私たちを弁護して助けてくださる。実は言うべきは教えられているのだと言うのです。

 この弁護者を通して、私たちは神の言葉を語ることができるのです。神の言葉において現れている真理を語ることができるのです。弟子たちと同じように、私たちも弱いものであり、状況がまずくなったり、危うくなったりすると、真理ではなく、自分が考える真理や正義や立とうとしてしまいます。弟子たちは主イエスの受難という苦しみを通って示された復活の恵みを最初は知ることができず、それを避けようとしました。私たちも同じだと思います。あらゆる困難を前にして、それを避けて通りたいと願います。でも神は、その困難の只中を通って、むしろその困難さの中においても、決して打ち崩されない神の恵みを明らかにされるのです。そのことを聖霊は明らかにされ、この聖霊は弁護者となって、私たちにそのことを告げてくださっているのです。

 私たちの困難、また私たちの願いをも超えて、この弁護者である聖霊は私たちの助け主として共にいてくださいます。真理を明らかにしてくださり、恵みの神様をキリストにおいて示してくださいます。教会の歩みもこの弁護者の助けなくしては何一つ成り立ちません。真理を告げることができないからです。私たちを真に生かしてくれる神の言葉とならないからです。この聖霊降臨の出来事を通して、私たちを助け、真理を告げ、真理に生きるものとなるようにと、神様は恵みを与えてくださいました。私たちはこの聖霊によって立てられ、神の言葉に養われ、この言葉をすべての人々に伝えるために、ここから遣わされて生きていくのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。