2018年5月27日 三位一体主日「真の支配者」

ヨハネによる福音書3章1~12節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスとファリサイ派の議員であるニコデモとの対話から御言葉を聞きましたが、両者の対話は終始、噛み合っていないという印象を受けられたでしょう。ニコデモは神の民であるユダヤ人であり、しかもファリサイ派に属するイスラエルの教師です。神様について人々に教え、神様の掟を忠実に守って、真面目に生きていたのが、ファリサイ派と言われる宗教指導者たちでした。他の人に比べて、神様の救いに近く、神の国を仰ぎ見ることができるのは、そのように真面目に生きている人たちではないかと言われていました。

 ニコデモもそのように真面目に生きていたでしょうし、当時のイスラエルの国がローマ帝国に支配され、国内においても小さな争いが絶えず、自分たちの国の宗教、信仰に危機的な状況がある中で、彼らは耐え抜いて、自分たちの信仰を守り続けようと必死に生きていました。誰よりも神の救い、神の国を待望しているニコデモですが、主イエスとの対話において、まるで自分が求めている神の国からは対極の位置にいるかのように、彼は主イエスの言葉を理解できていないのです。神の国、それは神様のご支配であり、神様の御心であります。自分たちは礼拝をし、賛美歌を歌い、聖書を読み、お祈りを通して、その領域に触れているのではないのか。神様のご支配に生きているはずなのに、その御心が見えてこない。神様のご支配、御心という出口は必ずあるはずなのに、主イエスとの対話においては、まるで巨大迷路の中をぐるぐると回っていて、迷いの内にあるニコデモの姿が思い浮かんでまいります。

 彼は主イエスに論争を吹っかけるために、主イエスの下を訪れたわけではありませんでした。どうしても主イエスに会って、話がしたかったのでしょう。主イエスはガリラヤから来た一介の伝道者です。宗教的な権威者ではありませんでしたが、彼がエルサレムでお越したしるしに多くの人が注目し、そして主イエスを信じたと言います。ニコデモも何か惹かれるものを感じたのでしょう。しかし、ファリサイ派に属するイスラエルの教師という立場がありますから、人目を憚って、夜に主イエスのもとを訪ねたのだと思います。そして彼が主イエスに「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言うように、主イエスは自分たちイスラエルの教師以上に、あなたには力がある。そのあなたの力と言葉ならば、私もあなたのことを信じることができると言わんばかりに、ニコデモは主イエスに好意を寄せ、主イエスを自分の教師として受け入れようとしている姿があります。この方なら、きっと神の国を、神様の御心を明らかにしてくださるはずだ。答えを導き出して、自分たちを救ってくれるに違いないという期待が込められていたのでしょう。

 彼自身、これからそういう対話が主イエスと出来るものだと思っていたかもしれません。しかし、主イエスの答えは、ニコデモ自身の信仰、それどころか全存在に向けて語られた鋭いものでした。はっきり言っておく。アーメンという言葉の切り口からその鋭さが伺えます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と主イエスは言われました。神の国はここで見られる、ここにあるというものではない。あなたが新たに生まれるかどうかの問題であると言われました。もう一度、母親の胎内から生まれでて、人生をやり直すということなのか。これまでの生き方をすべて覆されたような鋭い言葉であり、彼を大いに悩ませたことでしょう。そして、主イエスはまたはっきり答えられます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」新たに生まれるというのは、もう一度人生をやり直すとか、あなた自身が自分の力で獲得していくものではなくて、水と霊とによって生まれることであると言います。水と霊とは、今日でいう洗礼のことです。洗礼を受けることによって、新たに生まれるということです。水の中に霊のお働きが、神様の御力が働くのです。

 先週も言いましたが、霊の働きについてパウロが、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章3節で「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」と言いました。聖霊とは霊のことです。霊の働きによって、イエスは主であると告白できる。霊によって信仰が与えられるのです。だから霊の働きなくして洗礼を受けることはできないのです。

 霊の働きによって、イエスは主であると告白する。それはイエスが主であって、自分が主であるということではないということです。自分の存在が主イエスによって、また神様によって創られ、神様の御心の内にあるということです。人生をやりなおし、より良い自分に変えていくことではなくて、神様によって命を与えられ、今の自分という存在が確かにここにあると受け止める。それが神様を主として生きていくことです。

 主イエスはマタイによる福音書の山上の説教の中で、こういうことを言われました。有名な聖句です。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」(6:25~30)私たちは人生において思い悩みがつきません。常に何かに追われながら、強制されながら生きている自分の姿があります。その中で神様は自分をどう生かしてくれるのか、この窮地からどう救ってくれるのか、色々と悩み、その答えを求めています。ニコデモも同じ思いであったでしょう。どうすれば自分は神の国、神の支配を見ることができるのか、答えはいったいどこにあるのかと。そんな私たちに主イエスは空の鳥、野の花へと振り向かせます。神様が養われ、神様によって支えられている存在がそこに明らかとされている。そこに神様のご支配があり、神の国があるのです。私たちの命がそこで明らかにされているのです。

 ニコデモも、私たちも、尚、巨大迷路の中にあって、思い悩みを抱えつつ、出口を探しているのかもしれません。その出口がどこにあるのかと探すように、神の国、神の御心はどこにあるのかと求めているのかもしれません。しかし、神様は既に出口を指し示してくださっています。出口へと私たちを導いてくださっています。霊の働きは私たちを神の国というゴールへと導いてくれる人生の案内人としての働きです。迷いつつも、必ずたどり着きます。それは、既に私たちが神様のご支配の中で生かされている存在だからです。
このニコデモとの対話の後で、主イエスはこう言われました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)神様の御心の中心点がこの言葉の中に明らかにされています。一人も滅びることを願ってはいない。すべての人が神様の愛の支配下にあるのだと言われています。

 今や、私たちの存在は、命はこの神様のもとにあります。迷い、悩みの中にあって立ち止まってしまっても、神はそこから新しい道を備えられ、私たちを日毎に養ってくださっています。霊の働きはそのことに気付せ、はっとさせるものです。様々な出来事を通して、私たちはそのことを体験し、主の恵みに与るでしょう。この恵みに感謝し、恵みに応えて生きていくところに、神の国は見えてきます。神の国の祝福の内に、私たち一人一人の存在があるのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。