2018年6月3日 聖霊降臨後第2主日「友が救われるため」

マルコによる福音書2章1~12節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

緑豊かな新緑の季節となりました。今は礼拝中ですので、後ろの障子は閉めています、礼拝堂の後ろから見える桜坂も緑一色の木々に覆われています。教会歴の色も緑になりました。緑の典礼色は希望や成長という意味があります。緑一面の木々を見て、成長の豊かさを感じるものですが、この希望や成長とは神様の御業におけるものであります。神様がもたらしてくださる希望であり、豊かに成長して実りを与えてくださる神様の恵みです。

 聖書にはその希望や成長をもたらしてくださる神様の御業が至るところに描かれていますが、それは人々の苦難や悲しみといった闇の只中に示されたものでした。光が闇の只中で輝くように、絶望の中で、神様は希望の光を与え、私たちを慰め、導いて行かれるのです。

 主イエスはガリラヤという地域で宣教を始めました。今日の福音書に出てくるカファルナウムもガリラヤ地方に属する町です。このガリラヤについて、マタイ福音書はこう記しています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4:15~16)異邦人のガリラヤと言われ、暗闇の只中にあった地域。それは神様の救いから遠く離れ、希望の光が見いだせないところでした。そのガリラヤに住む人々は、大きな光を見、光が射し込んだ。と言います。その光をもたらす主イエスが、暗闇の中に光をもたらすように、神の国の到来を告げ、福音を宣べ伝えていきました。同じマルコ福音書では「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と主イエスは宣言されています。神の国、神様の愛のご支配はもう来ている。主イエスによってもたらされる神の国という救いはもうそこに来ている。あなたがたに光が差し込んでいるのだから、神様のもとに立ち返って、その良き知らせを信じなさいと言われるのです。

 主イエスは弟子と共にガリラヤ中を周り、多くの人々を癒されました。そして再びここカファルナウムに帰ってきました。評判を聞いた人々は主イエスが家にいることを知り、多くの人々が主イエスから癒されるために押しかけてきました。そこに中風の人が4人の男性の手によって運ばれてきました。具体的に何の病気かはわかりませんが、身動きができないほどの重い病であったことは間違いないでしょう。この主イエスの教えを聞き、癒されたいと思っていました。その思いはこの人を運んできた4人の男性が背負い込んでいるようです。この人を主イエスに癒していただきたい、その強い思いと熱心さが彼らを駆り立てるのです。

 多くの人がいて、正面からは入れませんでした。そこで彼らは床を運びながら屋根に上り、家の屋根を剥がして、主イエスのいるところに床をつり落としたと言うのです。男性4人がかりとは言え、相当な力と体力を必要としたことでしょう。彼らのその熱心さの中に主イエスは信仰を認められました。主イエスと直接話したのでもなく、信仰を告白したわけでもないのです。この友を救って欲しい、その願いだけでありました。そして主イエスは中風の人に病を癒すとは言われず、「あなたの罪は赦される」と言われました。罪があるから、この人は中風の病にかかっていたわけではありません。友人たちの信仰によって、神様の救いのみ業がこの人に現れたのでした。

 この罪の赦しの宣言を聞いた律法学者たちは「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と呟きました。罪の赦し、それは神様だけがもたらすことのできる業ではないのか。さらに、罪の赦しは、自分たちのように、神様の掟である律法を熱心に守り、正しい生活をして、聖書の知識がある信仰深い自分たちがまず神様から赦されるはずなのに、なぜこの中風の人がまず赦されるのか、理解できなかったのでしょう。

 この名も無き4人の男性がどういう人であったかはわかりませんが、彼らは何としてでも主イエスに会って、中風の人を癒して欲しいという思いがありました。それは簡単なことではありませんでした。床を担いでいくだけでも大変なのに、大勢の人がいて、正面から行けず、屋根まで担いで、屋根からつり下ろすことによって、ようやく主イエスに会うことができました。それは彼らの行動力の凄さではなく、この人が癒され、救われて欲しいという愛のみ業から来るものであると言えるでしょう。片時も彼らは中風の人から離れず、共にいました。主イエスに出会うチャンスを伺い、ほうぼうを尽くして、ようやく主イエスに引き合わせることができた。彼らの中風の人を愛するそれらの一連の行動から信仰が生まれ、その信仰はこの中風の人を包み込んでいたのです。故に、主イエスは中風の人の罪を赦されたのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言います。「人を愛する者は律法を全うしているのです。・・・愛は隣人に悪を行いません。愛は律法を全うするのです。」(13:8~10)律法という神様の教え、掟を全て守るのは、人を愛することであると言います。ただ自分ひとりが神様の教えをしっかりと守り、自分だけが救われるのではなく、他者が神様から救われることを望み、その人を愛し、行動していくことにおいて律法を全うする信仰があるのです。自分を誇るところに信仰があるのではなく、他者を愛するところに信仰があるのです。主イエスは4人の男性から、中風の人を愛し、思いやるところに彼らの信仰を見出したのです。

 私たちは他者を愛することの難しさを知っています。また真実に他者を愛せない自分の弱さに気付かされることがあるかと思います。そこに自分の罪を見出します。自分はこの4人の男性のような生き方ができるのかと思い悩むかも知れません。ただ、この中風の人の罪を赦されたのは、赦すことができるのは、主イエスただお一人です。彼らによって赦されたのではないのです。彼らの信仰によって、主イエスと出会い、主イエスを知ることができた。この方は罪を赦す方であると。罪を赦されるために、主イエスは十字架に掛かられるのです。屋根から床をつり下ろすに留まらず、主イエスはご自身を差し出して、十字架に死なれました。そのようにして、人々への愛を全うされたのです。赦されていることを知るのです。

 ヨハネによる福音書で主イエスは言われます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ15:13~15)何よりもまず主イエスが私たちの友となり、私たちの人生の床を担いでくださっているのです。その主イエスの愛の中に私たちの命があり、人生の営みがあるのです。この喜びを知るところから、私たちもまた4人の男性のような歩みをしていくのです。他者と共に生き、他者を愛する信仰に生きることができるのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。