2018年6月10日 聖霊降臨後第3主日「喜びと感謝を綴る生き方へ」

マルコによる福音書2章13~17節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この主イエスの福音の確信とも言うべき驚くべき恵みの御言葉に共々与れたことに感謝します。よく聞く言葉ですが、福音というのは驚きがそこにあると言います。はっと気づかされる思いがするのです。まさか神様の恵みと祝福がこんなに近くにあったとは気付かなかったと思うこともありますし、生き方が変えられるとも言います。そういう体験を福音という神様の御言葉によって明らかとされるのです。今日の福音書に出てくる徴税人のレビもそういう体験をして主イエスの弟子になった人です。

 このレビという人は徴税人でした。税金を集める人です。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていたので、ユダヤ人たちの税金は自分たちのために使われず、ほとんどがローマ帝国に吸い上げられている状況でした。ローマ帝国は効率よく税金を回収するために、現地のユダヤ人の中から徴税人を任命し、下請けとさせました。レビもその一人でした。徴税人はローマ帝国に納めるだけの規定の税金を払えば、後はいくらでも取り上げることができたのです。だから不正に税金を取り上げて、私腹を肥やしていたとも言われています。自分の私腹を肥やすために同胞のユダヤ人から税金を巻き上げ、ローマの役員と親密にあった徴税人を快く思わない人はたくさんいました。罪人と並んで人々から嫌われていた理由はそこにありました。

 レビ自身も人々から嫌われ、そのような負い目を背負って生きていたのでしょう。そんなある日、いつものように収税所に座って仕事をしているレビを主イエスが通りがかりにご覧になり、彼は主イエスからわたしに従いなさいと言われ、レビはすぐに立ち上がって、主イエスに従っていったと言います。この間、レビの何かでいったいどんな心境の変化が起こったのか、そういう心理描写は一切描かれていないので、わかりません。人々から嫌われ、徴税人という仕事に嫌気が差していたのか、疎外感を感じ、そこから解放されたかったのか、いろいろと推測はできますが、いずれも定かではありません。福音書はそんなレビの心理描写よりも、主イエスの声、呼びかける招きの声を強調しているのです。

 そして、彼自身、主イエスからそのように声をかけられるとは全く思ってもみなかったことでしょう。主イエスの招きの声、それはこのような礼拝の中でもエルサレム神殿の中でもなく、収税所という彼の仕事場でした。また宗教者指導者やユダヤの人々から見れば、異邦人であるローマの役員との関わりの中にあり、神様の教えに聞き従わず、人々から税金を不正にむしり取って、隣人をむさぼるという十戒の教えに反して罪を犯しているそんな姿をレビの中に見たことでしょう。どう見ても、神様から招かれはずがない、ふさわしくない人物と受け止められ、レビ自身もそのことは自覚していたのかもしれません。そんな自分に神の国の教えを宣べ伝えている主イエスの方から訪ね求め、徴税人をやめて悔い改めよと言われたのではなく、わたしに従いなさい、わたしと共に生きよと声をかけられた。驚きそのものであったかと思います。彼の決断以上に、主イエスの招きの声が彼の生き方に大きな変化を与えました。

 この後すぐ、レビは主イエスを食事の席に招きます。それはペトロの姑と同じようにもてなしをしたということです。主イエスの方から彼を食事の席に招いたのではなく、彼から主イエスを招いたのです。一緒に食事をとることは、親密の証であり、深い関わりを持つことです。その彼の行動から、主イエスから声をかけられ、招かれた事への喜びと感謝の心境が伝わってまいります。レビの家には彼だけでなく、多くの徴税人と罪人たちが主イエスと弟子たち共に食事の席についていました。自分の家の食卓に主イエスが共にいてくださる。これほど祝福されていると感じたのはこれが初めてであったかもしれません。ただ仲間たちで集まって、傷の舐め合いをし、励まし合っているわけではなく、その自分たちの只中に主イエスが共にいてくださる、神様を中心とした食卓に自分たちは与っている。私たちが食前の感謝の祈りをするのは、食事が与えられている喜びと感謝だけでなく、どのような食卓にも主イエスが共にいてくださり、主イエスから祝福された食卓に自分たちが与っていることを受け止めることではないでしょうか。ただお腹を満たすだけでなく、神様から祝福された食卓において、あなた自身の存在も人生も神様の祝福によって満たされている。不正に税金をとって、隣人をむさぼりとってでも、自分の私腹を満たす生き方から、そのようなことをしなくても、あなたは既に満たされている。神様の招きの中にあって、あなた自身が満たされていることを知ってほしい。あなたを招き、まことに満たして下さるかたを信じて共に生きて欲しい。主イエスの招きの声はその恵みに直結しているのです。ここに、レビが主イエスからわたしに従いなさいと言われた招きの声に対する喜びと感謝が見受けられるのです。レビが悔い改めたから、主イエスから招かれたのではなく、先に主イエスの招きがあったのです。その招きの声が彼を悔い改めへと導き、むさぼってでも満たしたい自分の生き方から、喜びと感謝を綴る生き方へと変えられていったのです。

 さて、その食事の席を伺っていたファリサイ派の人が弟子たちに苦言にも近い表情で訪ねます。なぜあのような人たちと食事をするのか。ファリサイ派の人々は、レビなどの徴税人、罪人とは真逆の立場にいた人たちと言えるでしょう。熱心に神様の教えを守りながら生きていた自分たちこそ、神様の前にあって正しいものであり、招かれるものたちであると、そのような自覚が少なからずあったかと思います。主イエスの神の国の教えに非常に大きな関心をもっていました。その神の国をまず見ることができるのは、その中に生きることができるのは自分たちのはずではないか。主イエスがそのように教えられることを期待していたことでしょう。しかし、その期待の声は、食事の席を見て、疑いの声となりました。なぜあのような者たちが招かれているのかと。

 そこで主イエスが彼らに言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この主イエスの言葉は、ファリサイ派の人々の神概念、信仰を打ち崩すこととなったでしょう。医者を必要とするように、罪人も罪人という病故に、神様からの救いを、祝福を必要としている。正しい者という健康状態であれば、既に救いと祝福の中にあるから、それを求めようとしない。しかし、それが当たり前だという感覚から、時に神様の救いと祝福が何であるか、自分の信仰を見失うことがあるのです。そして、自分の正しさを明らかにするために、他者を裁いてしまうこともあるのです。

 少なくとも、ファリサイ派の人々は、ここで食事をしている徴税人や罪人たちよりは、自分たちが正しく、自分たちのほうが神様の救いに近い存在であると確信していたでしょう。問題なのは、彼らをそのように不正なものとして非難すること以上に、その彼らの不正を足場にして、自分の正しさを誇っていたことです。主イエスが彼らと食事をされていることに疑問の声をもったところから、そのことがわかります。まず自分たちが招かれるのではないのか。それなのに、なぜ罪を犯しているものが先に自分たちより招かれているのか、それどころか彼らがなぜ一緒にいるのか、それ自体理解できませんでした。そして、ファリサイ派の人々は主イエスから遠ざけられているのでしょうか。主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われました。正しい人は招かれないのでしょうか。正しい人は遠ざけられてしまうのでしょうか。

 パウロはローマの信徒への手紙でこう言います。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(3:9~12)」ユダヤ人も罪のもとにある。だから正しい者はだれひとりとしていないのだと。そして、この後に、主イエスの十字架の贖いの業によって私たちは罪赦され、この十字架の御業の中に神様からの正しさがある。私たちはその信仰によって、神様から正しさを無償でいただいているのだとパウロは言います。つまり、正しい者はファリサイ派ではなく、主イエスご自身であるということ。罪人とは全ての人であり、全ての罪人を招くために私はここにきたのだ、あなたがたの間にきたのだと主イエスは言われるのです。そして、病人が医者を必要とし、尋ね求めるように、罪人が神様の救いを求めて尋ね求める。むしろ、尋ね求める前に、主イエスの方から私たちを訪ねてくださっている。あなたの病は治る。だから安心して私と共に生きて歩みなさいと、私たちを招いてくださるのです。

 パウロはテモテの手紙Ⅰで自分についてこう言っています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(1:15~16)この言葉は、罪人を招くために来られた主イエスの言葉と重なります。そして、パウロは自分のことを罪人の中で最たる者である言います。これは自分を卑下しているわけでもなく、自分が真っ先に救われたい故に言っているのではなく、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになりと言うように、主イエスの限りない憐れみに他ならないと。憐れみによる救いの御業がこのような私にも行き渡っている。それほど、神様の憐れみと愛の御業は深く、限りがないのだと言うのです。パウロの信仰の真髄はこの彼の告白にあるように思えます。

 どんな罪の深みにあっても、主イエスはそこに来てくださる。そして、わたしに従いなさいと、招いてくださる。自分ありきの生き方から、神様と隣人ありきの生き方へと変えられるのです。喜びと感謝をもって、神様と共に生きていく幸いを、主イエスは今日も私たちに教えてくださり、また呼びかけてくださっています。私たちは既に主イエスの招きの声の中にあるのです。誰ひとり、誰ひとりこの声に呼ばれない人はいないのです。レビや徴税人、罪人、またパウロの姿は私たちの姿です。この呼びかけてくださる主イエスの声に耳を傾け、喜びと感謝の内に、新しい歩みを歩んでまいりたいと願います。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。