2018年7月1日 聖霊降臨後第6主日「主に望みをおく」

マルコによる福音書3章1~12節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27~28)先週の福音書で主イエスは安息日についてこう言われました。安息日、それは人のためにあるものであり、全ての人のためにあります。ひとりひとりの命のためにある安息であって、掟や規則を守るためだけにあるのではないのです。そして、今日の福音書で主イエスはこう言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」この命という言葉は心とか魂と訳されている言葉です。単に肉体的な命だけを指している言葉ではないのです。命が救われる、私たちの心、魂が真に救われるためにある安息日、それはこの世の掟や規則で測ることはできないかけがえのない人の値打ち、尊厳が尊重されるということを私たちに伝えているのです。安息日の礼拝は、その神様の愛を私たちに伝え、その愛の只中に私たちの命があることを明らかにしているのです。ところが、その私たちの人としての値打ち、尊厳が踏みにじられている悲しい現実があることをも聖書は明らかにしています。今日の福音書の物語の背景には、そのような人々の閉じた、かたくなな心が浮き彫りになっているのです。

 主イエスは安息日に礼拝が行われている会堂にお入りになりました。多くの人がそこに集い、礼拝を守っていたことでしょう。そこに片手の萎えた人がいました。言い伝えによれば、この人は石工として伝えられています。もしそうなら、生計を立てて生きていくためには、両手の存在が必要不可欠です。その彼の片手が不自由になった。それは、当時の医療技術では治ることもなかったでしょう。しかし、そんな彼は決して絶望せず、この安息日に会堂に来て祈っていたのです。主イエスは、そんな苦しみを負った彼と一対一で出会ってくださるのです。

 けれど、そこにいた人々、おそらくファリサイ派の人々ではないかと思いますが、彼らはこの安息日に片手の萎えた人を主イエスが癒すかどうか、注目していました。注目すると言っても、ここでは悪意をもった彼らの思惑がありました。安息日には一切の労働をしてはならないという規定の中に医療行為も含まれていますから、主イエスがその人を前にして、医療行為を行えば、即座に安息日の規定に違反したとして訴え出ようとしていたのです。しかも、彼らは主イエスを陥れるために、その片手の萎えた人をも利用しようとしました。片手の萎えた人の手が治る喜びよりも、主イエスを陥れることに関心があったのです。このような人々の陰謀が渦巻く安息日の会堂の中で、主イエスは密かに彼を癒したのではなく、彼を会堂の真ん中に立たせました。そこは誰からも見える位置、一番注目される場です。安息日の中心的な出来事はこういうことであると人々に明らかにするためでした。

 そして、人々の心を見抜いて、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と言われました。人々は何も答えません。人々は熱心に安息日を守っていましたが、その熱心さ故に、自分の安息のことしか見えていませんでした。自分のことを正当化し、安息日の規定を破ろうとしている主イエスに注目が向けられているのです。それは他者を裁く口実としているのです。そのために、片手の萎えた人を利用するのです。彼らにとって、片手の萎えた人の手の症状は、命に関わる緊急事態とは見なされなかったのでしょう。だから、その彼の手をこの安息日に癒すという医療行為は安息日の規定に反するものであった。それを主イエスがするかどうかということに心が向いていました。自分たちのほうが正しく安息日を守り、善を行っているという自分にしか向いていない閉じたかたくなな心を主イエスは見抜かれているのです。

 命を救うことか、と言われた主イエスの言葉は、そのような彼らのかたくなな心に直接訴えかけています。命を救うと言われた時、片手の萎えた人の人生、その心、思い、そして、苦しみ、痛みということに心が向いているのかと、私たちは主イエスから問われているのです。安息日に救われる命とは、ただ緊急性を伴う肉体的な命というだけではなく、その人の値打ち、尊厳という命の本質が回復されることではないのかと問われるのです。

 だからこそ、主イエスは今、会堂の真ん中でそのことを人々に、そして私たちに語っておられるのです。私たちの閉じたかたくなな心に訴えかけておられるのです。怒りを伴いつつも、悲しみに満ちている思いで語りかけるのです。その人々の心を怒りによって断罪するためにではなく、嘆いておられるのです。この片手の萎えた人だけではない、あなたがたのそのかたくなな心こそ、慰められて、心を開いてほしいと。自分のこと、自分の正しさや価値観でしか人の値打ちを測ることができない人々、そして私たちに対して、主イエスは嘆かれているのです。失望されているのではなく、嘆かれ、なんとかして私たちの心が開くようにと、人の命、尊厳に目が向くように、今も見捨てず、御言葉を通して私たちを招いておられるのです。真ん中から私たちを招いておられるのです。その真ん中で起こっている神様の愛と憐れみを受け止めてほしいと。

 真ん中に導かれた片手の萎えた人に主イエスは言われます。「手を伸ばしなさい」と。すると、会堂の真ん中で奇跡が起こります。主イエスはただ一言いいました。片手の萎えた人はその萎えた手を伸ばしました。伸ばすことができたのです。主イエスが片隅にいた自分を真ん中へと招き、呼びかけてくれたからです。自分から近づいて、立ち上がり、手を伸ばしたのではなく、ただその招きの声があったからです。すると、手を伸ばすことができたのです。手を伸ばす手は元どおりになった。深い苦しみから救われたのです。どんなに見捨てられていても、神様は自分を真ん中に招き、呼びかけてくださるのです。

 しかも、主イエスは安息日の掟を破ってはいません。目に見える医療行為を施して片手の萎えた人を癒したのではないのです。人々は、主イエスが癒されるとすれば、それは行為を行うこととして見ていました。他の多くの癒しの物語では、主イエスが手を伸ばされたのです。しかし、ここでは手を伸ばしたのはこの癒された人であり、主イエスは何の行為も行わなかったのです。ただ御言葉を通して主イエスは安息へと招いたのです。

 「手を伸ばしなさい」。この主イエスの安息へ招きの声は、私たちにも向けられています。厳しい現実の中にあって、心がかたくなになってしまう私たちの心を開くために、安息日の律法という規定から命の福音という安息日へと私たちを招いてくれるのです。この安息日の主と共に、私たちは心から今真の安息日を迎えているのです。

 ですから、私たちは「手を伸ばしなさい」と招いてくださるこの神様の愛に応えればよいのです。片隅にいる私たちを真ん中へと引き上げてくださるのです。決して見捨てはしない、私たちと深く結ばれているのです。安息日は全ての人のためにあるのです。安息日の主となってくださった方の御声を信じ、そのようにわたしたちを愛し通してくださる方に全てを委ね、伸ばしましょう

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。