2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日「赦しに基づく共同体」

マルコによる福音書3章20~30節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」と今日の福音書の冒頭にありますように、主イエスがどこかの家に立ち寄ったのではなく、その家に帰ってきたと言います。帰るべき自分の家があったと言わんばかりに、主イエスは帰宅なさったのです。この家が誰の家かは明確にはわかりませんが、おそらくペトロの姑が住んでいるペトロの家だったのでしょう。主イエスはその家を宣教の拠点とされ、ご自分の家となされました。

 今日の福音書には家のことが記されています。私たちにとって家とはどういうところでしょうか。安心してくつろげる場所であるというでしょうか。また家族と一緒に住んでいる場所でもありましょう。食事をし、寝泊まりし、家事をする。そのように私たちの生活の営みがあるところです。主イエスも度々家に帰られ、人々と共に生活の営みをされていたのです。

 主イエスが帰られた家に多くの群衆が集まってきて、食事をする暇もないほどであった。というほどに、忙しさの中にあったそうです。おそらく群集たちは主イエスから病気を癒され、悪霊を追い出していただくために、主イエスを訪ね求めてきたのでしょう。主イエスもひとりひとりを迎え入れて、神様の教え、神の国を宣べ伝え、癒しを行っていたのだと思います。主イエスにとっての家とは、神の国の支配、神の愛が満ちているところなのです。

 そこに主イエスの身内の者たちが取り押さえに来ます。主イエスのことを「あの男は気が変になっている」と言われている噂を聞きつけたのかもしれませんが、口語訳聖書では「気が狂ったと思ったからである。」とあるように、身内の人が主イエスのことをそのように思っていたから、主イエスを自分の家に連れ帰るために、主イエスのもとに来ました。彼らにとって、主イエスがしていることは気が変になった身内の恥だと思ったからです。自分たちの手元にもう一回引き戻そうとするのです。

 また彼らの思いに同調するかのように、「エルサレムから下って来た律法学者たち」も、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」とあります。ガリラヤにいる律法学者たちとは違って、エルサレムから下って来た律法学者たちは、特にエリート階級の宗教指導者でした。安息日問題などにおいて、主イエスの教えと行為が問題になり、それが都エルサレムにまで報告されていたのでしょう。その悪い評判を聞きつけて来きました。彼らは主イエスのことをベルゼブルに取り付かれていると言います。ベルゼブルというのは、悪霊の頭とも言われますが、元の言葉の意味は家の主人、家の支配者という意味の言葉です。その悪霊の頭の力で悪霊を追い出している者であると言います。つまり、自分たちの神の教えに背く主イエスの教えは、神の力でも教えでもない、むしろそれは真逆の悪の力が働いていると主イエスを冒涜しているのです。

 身内の者にしろ、律法学者にしろ、彼らはそこに自分たちの知っている主イエスの姿、自分の知らない神の教えを伝える主イエスの姿に、自分たちの手に負える存在ではないと確信したのでしょう。主イエスのことを知っているのは他の誰でもない自分たち身内のものであり、神の教えを知っているのは、他の誰でもない自分たちエルサレムの律法学者であると。自分たちの手に負えない、外に出てしまっている者を「気が変になり、悪霊の頭による力に踊らされている」と彼らは言うのです。あの人は何を考えているのだ、なぜあの人は自分たちの意に反することばかりをするのか。あのことは、あの人のことは一番自分が知っているのに、その通りにならないという嫉妬、妬み、また差別、偏見というものを私たちも持ってしまうものではないでしょうか。親子関係で言えば、なぜあの子は親である自分の言うことを聞かないのか、自分の思い通りに育たないのか、いったい何を考えているのだ。そういう思いに近いものです。私たちは人を見るとき、人を判断する時にも、自分の価値観をどこかでその人に植え付けてしまっているのかもしれません。

 律法学者たちの言葉に対して、主イエスは国であろうが、家であろうが、サタンであろうが、内輪揉めをしてしまえば、その共同体は立ち行かず、いずれは滅んでしまうではないか。そんなことは有り得ないことではないかと言われます。だから悪霊の頭の力で悪霊を追い出すということは有り得ないことであり、悪霊の頭の力によって残るのは、悪霊しかいないのです。それは自分の価値観によって、自分の偏った価値観を改めることはできないのと同じです。そうすると、自分の価値観を否定してしまい、成り立たなくなるからです。自分の価値観を改めるには、外からの影響や出来事に耳を傾けることから始まるのです。

 そして続けてこう言われます。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」物騒な話ですが、家財道具を奪い取るには、その家の強い人、また家の主人を倒す力がなければ、不可能なことです。家の主人と同じ力ではダメなのです。

 ここでは先ほど言いましたベルゼブルという家の主人、支配者からの解放ということが、家財道具を奪い取るという言葉に重ねられています。そして家財道具というのは、このベルゼブルや悪霊に取り付かれている人のことを指します。ベルゼブルや悪霊は人を神のもとから引き離し、罪を犯させる力であり、人の心を分裂させて、平和を乱すものです。それが自分の家、または自分の心の家の主人となってしまっているのです。そこにはいろんな痛みや苦しみがあります。主イエスの時代、悪霊は人を病に掛からせ、また罪を犯させる力であると言われていました。それは今の私たちの身近にもある力です。私たちの心を分裂させ、心に病をもたらす力があります。また魂の飢え乾きをもたらし、自分を見失わせる大きな力があります。迷い、悩み、思い煩う自分がどこにいるのです。自分を受け止めてくれるもの、自分の価値を認めてくれるものを探し回っている自分の姿がどこかにあるのではないでしょうか。

 主イエスはそんな自分を縛り付けている力からの解放を宣言されるのです。主イエスが強い人を縛り上げ、家財道具である私たちに解放をもたらしてくださる。そうして、誠に本当の自分を取り戻すことができるのです。主イエスの家、神の国という神様の愛が、私たちの心に入ってきて、信仰によって新しく生きるものとされているのです。

 そして主イエスは28節で言われます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」はっきりとは、アーメンという言葉です。誠にあなた達に告げる。よくよくあなたがたに言っておきたいことがあるという主イエスの重大な宣言です。それは「どんな罪も冒涜の言葉も赦される」という罪の赦しの宣言でした。主イエスの方から私たちの只中に来てくださるからです。私たちの心に入ってきて下さり、そこに神様の愛をもたらしてくださるからです。神様の愛がベルゼブルや悪霊、サタンと言った分裂をもたらすものに勝利し、またその愛によって生きる力が与えられるからです。真の安らぎを得ることができるのです。私は罪人を招くためにきたという主イエスの愛の御心、意思がこの言葉の意味を明らかにしています。あなたがたを招いて、赦し、愛してあげたいという主イエスの心がここで明らかにされているのです。

 続けて主イエスは「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」とも言われました。これもアーメンと言われる内容です。聖霊は主イエスの心であり、主イエスの意思です。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」ということができない」(第Ⅰコリント12:3)とパウロが言ったように、聖霊は主イエスを明らかにし、主イエスの十字架と復活を通して示された神様の愛を私たちに教えてくださるのです。この聖霊における神様の愛の御心がないところには、私たちの罪の赦しは見えてこないのです。

 主イエスの福音はどんな罪も冒涜の言葉も赦される罪の赦しです。その罪の赦しがもたらされる神様の家に今日も私たちは帰ってきて、またここから、神様の愛と祝福の内に新しい人生の一歩を歩み出すことができるのです。教会はその神様の家を形にしているキリストの体であり、罪の赦しがもたらされる信仰の共同体なのです。ベルゼブルや悪霊と言った分裂と滅びの力ではなく、聖霊を通して明らかになるキリストの憐れみと愛によって、命を与えられ、私たちは再び立ち上げられて、歩んでいくことができるのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。