2018年7月29日 聖霊降臨後第10主日「安心して行きなさい」

マルコによる福音書5章21~43節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書にはふたつの癒し物語が記されていますが、それらは続けて別々に起こっていることではなく、会堂長ヤイロの娘の癒し物語が十二年間も出血の止まらない女性の癒し物語をサンドイッチするように、挟まれております。つまり、このふたつの物語は絡み合っていて、別々に切り離す必要はないし、切り離せないものであると言えるでしょう。ふたつの癒し物語は同時に起こっているのです。もっと具体的に言えば、ヤイロとこの女性の信仰体験、主イエスとの出会いは、それぞれの立場や状況の中で起こっているという違いはありますけれど、等しく一人一人同時に起こっていることなのです。今ここにいるひとりひとりに起こっていることなのです。

 主イエスが湖のほとりにおられるところに、評判を聞きつけてやってきた群衆が主イエスを取り囲みます。そこに会堂長の一人であるヤイロが来て、主イエスの足元にひれ伏して、しきりに願います。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」会堂長というのは、ユダヤ教の会堂の管理を任されている礼拝の指導者でありました。だからこのヤイロという人は有名な人であったでしょう。その彼の娘が不治の病にかかり、死にかけているというのです。彼の必死の願いは子を持つ親であれば、誰もが願うことでしょう。藁をもすがる思いで、主イエスに共に来ていただいて、娘を助けてくださいと願います。彼は主イエスが来て癒して頂ければという思いをもって、「そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と言いました。この助かりという言葉は、34節で主イエスが十二年間も出血の止まらない女性に対して語った言葉、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」という「救った」という言葉と同じなのです。ヤイロは娘の病が癒されることだけを望んでそのように願いますが、それはこの女性に起こった出来事と一緒なのです。助かる、救う、というのは、もう自分の手ではどうしようもなく、他に助けを求めることです。一切を委ねることです。むしろ、それしかできないということでもあり、自分は全くの弱さの中に立たされることでもあるのです。

 主イエスは彼の願いを聞き入れ、早速彼と共にヤイロの自宅に行こうとされますが、その道中で十二年間も出血の止まらない女性と出会うのです。十二年間も出血の止まらない状態にあった彼女の苦しみは計り知れません。全財産をつぎ込んででもその病から治ろうと願いますが、いずれも叶わず、途方に暮れていたのでしょう。そこで主イエスの評判を彼女も聞きつけ、ヤイロと同じように藁をもすがる思いで、もうそこにしか望みはないと思い、群衆をかき分け、やっと主イエスの服に触れることができました。すると、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」と言います。十二年間も味わうことができなかった自分の体に癒しが起こったという実感があったということです。同時に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、」とあるように、主イエスの内から力が引き出され、その力によって女性は癒されたと、福音書はまことリアルに描いているのです。

 そして主イエスは立ち止まりました。群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われ、その人を探します。弟子たちは、こんなに群衆に囲まれていては、到底わかりませんよと言います。一刻を争うヤイロからすれば、これは思わぬ事態であり、気が気でなかったでしょう。弟子たちの言葉は彼の言葉でもあり、その女性のことよりも一刻も早く、自宅に向かってほしいという思いだったでしょう。

 それでも主イエスは立ちどまり、彼女を探します。ここでは病が治されたという彼女の喜びはありません。むしろ、十二年間も出血の止まらない状態にあった自分が癒されたことを体でリアルに感じたことに驚きと恐れを抱いていました。また、主イエスの服に勝手に触れてしまったのですから、どのような咎めを受けてもおかしくないと思い、恐れたことでしょう。そして彼女は恐る恐る主イエスの前に出て、今まで自分に起こっていたことをありのままにすべてを話しました。主イエスは彼女に言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」彼女からすれば、それは以外な答えであったかもしれません。主イエスが「私の力であなたは癒されたのだ」と言われたのではなく、あなたの信仰があなたを救ったと言われたからです。彼女の信仰とはいったい何でしょうか。主イエスが神の子であったと告白しているのでもなければ、聖書の言葉を語っているわけでもありません。彼女が素晴らしい奉仕活動をしているわけでもありません。彼女はただ自分の病を癒してほしいという一心で、主イエスの服に触れただけなのです。そしてただありのままに自分の状況と心境を主イエスの前で語っただけなのです。ただ主イエスの癒し、主イエスの恵みに与りたいというその一心で、主イエスを訪ね求めただけなのです。主イエスはその彼女の思いを信仰と受け止めてくださいました。彼女が特別何かに優れているわけではなく、また大きな功績を持っているからではないのです。

 よく私たちは、自分たちの信仰が小さく弱いから、伝道がうまくいかない、良い結果に結につかないと思うところがあります。でもそれは結局、自分たちの働きや力に頼りきっている面があるのです。伝道がうまくいくかいかないか、良い結果になるのか、ならないのかは、自分たちが決めることではないからです。自分たちの働きや力によって実るものではないからです。誠に実りを与えてくださる主イエスに訪ねもとめ、主イエスと共に歩んでいこうという姿勢があるのかないのかということが求められているのです。

 主イエスが彼女に言われた言葉は、あなたの信仰があなたを癒した、と言われたのではなく、救ったと言われたことでした。彼女の行為を信仰と受け止められたのは主イエスご自身です。その内容は主イエスを訪ね求め、ありのままの自分をさらけ出したことでした。その思いを主イエスは受け止められ、御手の中に置いてくださっているのです。病が癒されたこと以上に、病の中にあって、どれほど苦しい只中にあっても、私はあなたと共にいる。あなたのその苦しい思いを決して見放すことはないから、あなたはありのままに、私と共に歩いていけばよいと。だから、彼女に救われたと言われたのです。

 そこに、ヤイロの使いの人が来て、ヤイロの娘が亡くなられたという情報を聞かされます。使いの者が「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」という言葉は、ヤイロの心情を代弁しているものでもありましょう。もう手遅れだ。今更主イエスに来てもらっても、娘が助かるわけではない。そういう絶望と諦めの思いに満ちていたでしょう。この後、ヤイロは一言も語りません。言葉を失うほどの悲しみと絶望の中にあったからでしょう。しかし、そこで主イエスは彼に言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」。ただ信じなさい。それは、それでも私と共にいなさいという言葉でした。しきりに願ったヤイロの願いは、途絶えたわけではないのです。主イエスはどこまでもヤイロと共にあったのです。

 彼の自宅に着くと、「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。人々はその主イエスの言葉をあざ笑いました。そんなことがあるのものかという人々の諦めと不信仰の様子が明らかになっています。それは現実を物語っています。主イエスはその只中を歩むかのように、部屋に入り、そして子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。と言います。すると、少女はすぐに起き上がって、歩きだした。と言います。娘は助かった、娘は救われたということがここで明らかになりました。主イエスはあなたは永遠に生きるとは言われません。あなたの足で起き上がりなさいと言われただけです。だから、いずれはこの娘も死を迎えるわけですが、主イエスは眠っているだけなのだと言われ、その言葉は既に主イエスの御手の中にこの娘があるということを明らかにしているのです。主イエスの及ばないどこか別次元にあるのではなく、今も主イエスはこの娘と共にいるのだと。やがて、主イエスご自身は十字架につけられて死に、3日後に復活し、死に勝利されます。これは主イエスが死の世界にもおられるということ、死の世界にあって、その死が終わりではない、神の答えではないということをご自身の十字架と復活を通して明らかにされたのです。

 「恐れることはない、ただ信じなさい」。他に何か根拠や理由付けはないのです。神の子である主イエスがヤイロとその娘と共にいるという約束に限るのです。もっと言えば、あなたがたの人生がどのような歩みにあろうと、あなたがたは私の御手の中にある。だから私の愛からあなたがたが引きはなされることはない。たとえそれが死という圧倒的な絶望の窮地の中にあっても、私はあなたと共にいて、あなたと共に歩み続けると。だから今、あなたは起き上がりなさい。起き上がることができると言われたのです。

 ヤイロの信仰がどうとは言いません。もう既に主イエスはヤイロと共におられるからです。そして、先ほどの十二年間も出血の止まらない女性もそうです。彼女もヤイロもただしきりに主イエスに願い、主イエスに触れただけなのです。そうしてありのままの自分をさらけだしただけなのです。どうなるかわからない。諦めもあったかもしれない。けれど、主イエスは彼らから離れることはありませんでした。彼女には信仰を明らかにし、ヤイロには離れかかってしまう彼にただ信じなさいと言って、私のそばから離れず、共にいなさいと励まれました。そして、私たちもそうです。いろんなことを主イエスに願うでしょう。救ってほしいと思うでしょう。もうだめだと言って、諦めたくなることもあります。そのありのままの私たちの只中に、主イエスはあのクリスマスの夜にご降誕なされたのです。それも、私たちと同じ人間として。同じところに立ってくださった。どこか遠い次元のあるところではないのです。私たちの悩ましさ、悲しみ、苦しみの中に立って、そこから共に歩んでくださるのです。

 両者も私たちも何も持ってはいません。ありのままに小さく、弱い自分の姿があるだけです。主イエスはその私たちと共に歩まれるのです。パウロは、「わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントⅡ12:10)と言いました。弱いのが強いのではありません。また弱さを隠して、強さを演じることではありません。弱さ、小ささをありのままに暴露し、それ故に、キリストに一切を委ねていくという信頼、不変の信頼が強さです。「ただ信じなさい」。私たちの弱さをもキリストがその御手の中に包み込んでくださっているのです。そのように、私たちの歩みを共に歩んでくださり、決して見放されることのないこの主イエスに訪ね求め、また一歩をここから歩んでまいりたいと願うものです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。