2018年8月5日 聖霊降臨後第11主日「神と人とのつながり」

マルコによる福音書6章1~6節a  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 タイトルを忘れてしまいましたが、イエスキリストの生涯を描いた最近の映画で、有名な俳優が主イエスを演じていました。そしたら、その映画を見た人の感想の中に、イエスキリストがこんなにイケメンでいいのかと言っている記事がありました。ああ、そう言われると、イケメンかもしれないな、そういう見方もあるのかと思い、思わず頷いてしまいました。その人がどういうイエスキリストのイメージ、イエス像を描いていたのかはわかりませんが、イエス像を思い浮かべると、何となくこんな感じの人だなと、私たちもすぐに思い浮かぶかと思います。美術の授業や美術館に行けば、一度は目にするでしょう。そして、イエスキリストのイメージが根付きます。

 今日の福音書は、主イエスが故郷にお帰りになって、そこで宣教をされた物語ですけれど、そこにいた人たちは私たち以上に、主イエスの近くにいて、主イエスを知っている人たちでした。主イエスの顔、姿、職業、評判、そして小さい時の姿。主イエスと言えば、ああ、あの大工のイエスのことか。主イエスの家族も家も知っているよ。あのイエスがこんなに大きくなり、立派になったのかと、そのように人々は受け止めたのでしょう。

 その人々がよく知っている主イエスが安息日に会堂で教え始められた、ようするに説教をされたということです。すると、聞いていた多くの人々は驚いたと言います。この驚くとは、我を失うほどの驚きという意味の言葉です。びっくり仰天したのです。びっくり仰天して人々は言いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」主イエスの説教は人々に大きな驚きを与えるほどの、知恵と奇跡に満ちていたのでしょう。奇跡とはもとは力という言葉からきていますから、力ある業とも言われます。こんな知恵と力に満ちた説教は今まで聞いたことはない。この人はいったいどこからこのようなことを学んできたのだろうか、と人々は反応します。

 そして、続けてこう言います。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」この当時の大工というのは、一軒家を建てるような職人というより、建築の道具や家具を作っていた職人を指すそうです。その大工であった主イエスは、あのマリアの息子ではないかと言われます。父親の名前ではなく、母親の名前を出しているのは、父親のヨセフが既になくなっているためとか、他の兄弟たちはマリアの子供ではなかった、つまり腹違いの兄弟姉妹であったから、それと区別するために敢えて母親の名前を出しているとも考えられますが、通常は父親が既に無くなっていても、父親の名前をつけて呼びますから、ヨセフの子と言われるのが一般的です。それを敢えて母親の名前を出しているのは、皮肉や非難を込めた表現だと言われています。このイエスの説教は知恵と力に満ちたものであるが、私たちの知っているイエスは、大工であり、あのマリアやその兄弟の家族に過ぎないではないか。故郷の人々はそのような主イエスの姿だけを知っていて、その思い込みの方が強く出ていたのでしょう。

 これらの人々の驚きの反応がつまずきを与えたと言います。つまずきとは、スキャンダルという言葉を生み出した言葉ですが、「つまずいて転ぶ」とか「ショックを与える」、「攻撃する」などの意味の言葉です。人々は、あの自分たちがよく知っているイエスから神様の力強い言葉を聞くわけがない、と主イエスを拒否しているのです。主イエスの口から発せられる説教には驚かされたが、それが主イエスご自身からのものだとは到底思えない。彼らは人としての主イエスに躓いたのです。

 この人々の豹変ぶりは、エルサレムに入場した主イエスを迎えている人々の反応に似ているものがあります。そこで人々はホサナ(主よ、お救いください)、ホサナと言って、主イエスをあのダビデ王のような力強い王様であり、イスラエルを支配していたローマ帝国を力で追い出してくれる、自分たちの期待する救い主として、主イエスを迎えますが、そのホサナ、ホサナという人々の大合唱はやがて十字架につけろ、十字架につけろという言葉にひっくり返ってしまうのです。そこでは、自分たちの期待はずれに映った主イエスの無力さに人々は躓いたのです。

 ですから、躓いたというのは、主イエスの故郷の人々に限った事ではないのです。同じユダヤ人も主イエスに躓いて、主イエスを十字架につけてしまったのです。私たちはその十字架の主イエスを知っていますが、私たちもまた、自分たちの一方的な思いや願いを神様に要求し、また自分の型に当てはめたイエスキリストの姿に個室している面があるのではないでしょうか。体裁ばかりをつくろって、数や物量に頼りきって、そのことばかりを主イエスに求めている姿があるのではないでしょうか。教会の中にあっても、その姿は変わらずあるのかもしれません。

 故郷の人々は、神様の言葉を教え、それを御業として行っていくものの器として、大工であり、マリアの息子であると知っていた主イエスには到底ふさわしくないものだと受け止めていたのでしょう。そこには、エルサレムで主イエスを迎えた人々の姿と重なっているのかしれません。自分たちの期待している救い主は、自分たちのよく知っているあの人なんかではない。そうであってはならないのだと。救い主とは、神様とはこういう存在ではないのか。このようにして自分たちを救ってくれるのではないかという自分たちの思いが、つまずきを引き起こすのです。

 では、主イエスは人ではないのかと言われると、確かに私たちと同じ人です。だから、主イエスの人としてのイメージが思い浮かびやすいのです。しかし、人であるけれど、具体的には人となられた神であるということです。パウロはフィリピの手紙でこう言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」四旬節の時に唱えるキリスト賛歌と言われる聖書の言葉ですが、自分を無にして、人間と同じものになってくださったのが、イエスキリストであり、神と等しいものであるいうのです。無にしたというのは、無力になったということです。そのはっきりとした姿を、あのクリスマスの夜に飼い葉桶の乳飲み子の姿に見ることができるでしょう。そして故郷のナザレで育ち、大工として生計を立てていた主イエスの姿に繋がりますが、そのように故郷の人々と暮らしを同じに、共に歩んでいたのは、その姿の中には神様の意志と目的があったからです。

 ヨハネによる福音書3章16節と17節にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」主イエスが人となられ、私たちの只中に来てくださったことは、神様が世を愛されるため、世に生きている私たち一人ひとりの痛みや悲しみ、苦しみをご自分のものとして受けとめられ、私たちひとりを大切にして愛してくださるためでした。その神様の愛は私たちの躓きによって引き起こされた十字架の死によって完成したのです。

 主イエスがそのように人となってくださり、私たちと共に歩んでくださるところに、神様と人との繋がりがあるのです。故郷の人々はごく近しい主イエスの姿だけを見て、神の言葉を語られ、そこに驚きをもたらした神様の知恵と奇跡、力ある業の本当の目的、意志に気づくことができず、躓いてしまいました。人々の躓きに対して、従順に歩まれ、十字架の死を遂げられる十字架への道が、実は私たちのための救いの道となっているのです。神様の知恵と奇跡がやがて主イエスの十字架と復活として、私たちの躓きをも飲み込んでしまうのです。

 この後、主イエスは12人の弟子たちを宣教へと遣わされていきます。人々のつまずきと不信仰に驚かれはしましたが、そこで挫折したのではなく、むしろこの人々の躓きを通して、新しい宣教の局面を迎えていくのです。この弟子たちもやがては躓きます。主イエスを裏切ってしまいます。しかし、主イエスの復活によって彼らは立ち直り、主イエスとの歩みを新たにしていくのです。それは、主イエスが躓いた彼らを見放してはいない、見捨ててはいないということです。彼らの躓き、私たちの躓きをも飲み込んでしまう主イエスの愛が、私たちの人生を包んでくださっているからです。

 それこそ私たちの宣教は、故郷の人々や十字架につけろと叫んだ人々の姿と重なるように、転んでばかりかもしれない。迷うことや不安を覚えることもあるかと思います。しかし、主イエスはその私たちを何度でも立ち起こして、共に歩んでくださいます。だから、私たちはその主イエスに全てを委ねて、歩んでいきましょう。主イエスこそが神様の知恵であり、奇跡であります。それはまた驚きであります。そこに神様の愛の意志が働いている。私たちのために今日も生きて働いてくださっているのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。