2018年8月12日 聖霊降臨後第12主日「何も持たず」

マルコによる福音書6章6b~13節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先々週の日曜日に、以前子ども礼拝に来てくれていた高校生の方から、学校からの課題ということで、ある質問を受けました。その内容は、どうして神様を信じるようになったのかという質問でした。そう問われると、一言、二言で答えられるものではないから、どう答えようかなと迷いつつも、高校生の時からキリスト教に関心を持って、大学生の時に洗礼を受けるまでの自分のエピソードを短く話して、答えました。

 神様を信じるようになったというのは、自分が救われたという体験をしたからです。それは人によって、いや人の数だけ、自分の救いの物語があります。一瞬の劇的な体験をしたこと、また時間をかけて救いということが何なのかがわかった、などそれぞれの体験をされるのでしょう。そして、救われたというのは、必ずしも目に見える苦しみや悲しみから解放されたということだけには留まりません。目からウロコという言葉がありますけれど、これはパウロが、復活のキリストと出会い、そして洗礼を受けて目が見えるようになったときに「目からウロコのようなものが落ち」(使徒言行録9:18)という表現から来ています。目が開かれたという救いの体験をパウロはしました。それまでは見えなかった神様の恵みが見えるようになったというのです。見えなかったものが見えるようになった。気付かなかったことに気づかされた。救いとはそのように驚きでもあり、発見でもあるのです。まさにそれは目からウロコが落ちるかのような体験なのです。

 私たちが神様の教えを宣べ伝えていく伝道や宣教という活動をしていくときに、常に土台にあるのは、自分の救いの物語があるということではないでしょうか。自分はこのようにして神様を信じ、救われた。そして今も、その神様の救いの御業は生きて自分の中に、全世界に働かれている。だからこそ、自分も一人の伝道者として宣べ伝えていくことができるのです。

 今日の福音書は主イエスが12人を伝道に遣わしていく物語です。この12人とは前の3章で主イエスが12人を選ばれて任命したものたちです。(マルコ3:13~19)主イエスの12弟子のことではありますが、そこには弟子とは記されず、使徒と記されています。使徒というのは、使徒言行録の使徒ですが、これは遣わされる者という意味の言葉からきています。主イエスは彼らを派遣して宣教させるためにそばにおいていたと言います。そして、今日の箇所で、いよいよその12人の使徒が遣われていくのです。そのメンバーは漁師であったペトロやヨハネ、徴税人であったマタイ、熱心党のシモンといった面々でした。彼らは宗教指導者でも、祭司でもなかったのです。皆、主イエスと出会い、主イエスを信じて救われたものたちでした。その自分たちの体験を彼らは遣わされた任地で語ったのかもしれませんし、直接語らずとも、自分の体験を土台にして、喜んで神様の言葉を語ったのでしょう。

 主イエスは12人を2人ずつ組にして遣わされていきました。なぜ2人かというと、証言の信憑性が2人以上の証人を必要とするためでした。またこれは、一人で伝道することの限界を伝えているのでしょう。一人が倒れ、躓いても、もう一人が立ち起こしてくれるし、その逆もありえるのです。互いに手を取り合って、支え合いながら、伝道ができるのです。孤立してはできないのです。この2組のもうひとりの相手をいろいろな人に置き換えることができるでしょう。教会と牧師、牧師と信徒、信徒と信徒、牧師と牧師、教会と教会など、いろんなパートナーがあります。パウロやペトロも伝道のパートナーを必要としたのです。その支えられている体験もひとつの救いの体験ではないでしょうか。2組の背後には主イエスがおられ、主イエスがその2組みを結び合わせてくださっているのです。

 そして、主イエスは旅立つにあたって、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」と言います。同じマタイによる福音書(マタイ10:1~15)では杖も履物も持って行ってはならないと命じられています。それがガリラヤ地域に限ったことなのか、地中海全域を指しているのかといった距離上の違いから、杖と履物をもっていいかどうかということかもしれませんし、杖はモーセが出エジプトの時に、神様がそのモーセの杖を用いて、神様の御業を行うための器として用いるために備えたもの、また羊飼いの象徴としているものだと言われています。いずれにせよ、主イエスはここで、裸一貫で行きなさいと言われるのです。自分の力や知恵による道具によって真の伝道はできないというのです。

 これは厳しい主の命令かもしれません。伝道はひとつの旅でもあります。旅支度は慎重にするものでしょう。あらゆることを想定して、荷物を詰め、準備万端にして出かけていくものです。そのように、自分の持っているもので安心するでしょう。自分の持っているもので勝負しようとします。それはまた旅行に限ったことではないでしょう。人生を生きる上で、備えあればうれいなしと言われるように、私たちは様々なものを所有しています。それらを頼りとして生きているのです。

 所有すること自体は悪いことではないでしょう。けれど、主イエスが伝道する時に、何も持たず、裸一貫で行きなさいと言われるのは、誠に備えられる方は神様であり、その信頼の内に遣わされていきなさいということなのです。そのことを身をもって体現しなさいと言われるのです。それは自分の所有するものに頼りきるあまり、思い煩いが生じるからです。あれもこれもないと不安になる。そういう不安はきりがなく、それを言い出すと何もできなくなるからです。全てが目に見える形で万全に備えられないと伝道はできないということは、結局はその目に見えているものが伝道の実を結ぶもとになってしまっているわけです。伝道の実を結ばれるのは私たちではなく、神様であり、神様の御言葉がその人に救いの体験をもたらすのです。だから、何も持たず、裸一貫で行きなさい、よけいなものは捨てて、神様の御言葉に信頼して伝道しなさいと言われるのです。

 また、何も持たずというのは、目に見える道具や荷物だけではないでしょう。弟子の一人であるペトロとヨハネは、この後、使徒言行録で大きな伝道活動をして活躍します。足の不自由な男性を癒し、宗教指導者たちから取り調べを受けている時、彼らは人々の前でこう言いました。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:10~12)このイエスキリストだけを力強く指し示す説教を聞いた人々はこう反応します。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒言行録4:13)二人を示すこの「無学な」というのは、教育もなく、器用でもなく、才能もない人間という意味です。取るに足らない存在だというのです。何も自分の武器を持ち得ていないのです。また、コリントの信徒への手紙Ⅰの1章26節から31節にはこうあります。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」神様は敢えて無きもの、何も持たないものを選んだとさえ言われるのです。

 しかし、それはただ何もないことだけを勧めている言葉ではありません。孤立しなさいと言っているのではないのです。先ほどの使徒言行録の言葉の中には、「また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」という人々の証言があります。無学なものであるけれど、主イエスが自分たちと共にいてくださる。そして自分たちの所有しているものや地位、また力や知恵があなたたちを救いに招くのでは決してない。この今も共にいてくださる主イエスの名によって、いやこの主イエスのお名前以外に、あなたがたへの救いの道は開かれないとさえ言っているようなものです。

 イエスと一緒にいた者であるということ、これが彼らの救いの体験となりました。ペトロたち、12人の使徒は、主イエスの十字架の死を前にして、主イエスを裏切り、逃げ去りました。信仰を失いかけました。しかし、主イエスはご自身の復活の時に、彼らを見捨てることはなく、再び彼らを立ち上げ、その時に再び彼らに世界に出て行って、伝道しなさいと彼らを遣わされていくのです。彼らのその赦しという救いの体験が彼らの伝道に結びついているのです。むしろ、それは切り離せないものなのです。

 無論、彼らが伝道の困難さを避けることができたわけではありません。常に伝道の困難さを抱え、命を狙われるほどの危険を伴いました。目に見える頼れるものには限界があり、またそれが障害になることもありました。しかし、伝道を通して、人が救われるのは、主イエスとの出会いであり、その人との関わりを通して、共に生きることであると彼らを初め、教会はそのことを伝えていきました。

 伝道の助けとなる道具や手段はたくさんあります。しかし、伝道の実を結ぶのはそれらのものではないのです。その実の味を知っているものが器となり、その器を通して、神様は必ず、伝道の実を結ばせてくださいます。私たちはここからまた新たな実りを信じて、キリストと共に伝道していく、神様の御言葉の種まきをしていくのです。それがどのくらい待って実るかはわかりませんが、私たちが所有するものではなく、神様のご計画がその人にあって、そのふさわしい実りを与えてくださるでしょう。それがその人の救いの体験となり、信仰の宝となります。また新たな伝道の源となるのです。

 また新たに主イエスが私たちを2組みずつにして遣わされていきます。いろんなパートナーがあるでしょう。それぞれに救いの体験を分かち合った者同士、支え合い、協力して、そして励まし合いながら、主イエスが先頭に立ってくださる、主の宣教と伝道に携わってまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。