2018年8月26日 聖霊降臨後第14主日 「三つの出来事」

マルコによる福音書6章45~52節  小杉 直克 兄

 「それからすぐ」という言葉から今日の御言葉は始まります。先週の御言葉の五千人の人々に食べ物を与えた出来事です。その直後イエス様は弟子達にガリラヤ湖のベトサイダへ行くように強いて言います。

 「強いて」、イエス様の「強いて」という言葉は聖書の中でも大変珍しく、数回しか記されていません。「強いて」とは強制的に強い意志を持って弟子達を従わせたと言うことになります。何故「強いて」、敢えて弟子達を船に乗せ御自分より先に向こう岸のベトサイドに行かせたのでしょうか。ベトサイドの町はペテロ、アンデレ、フィリポの生まれ故郷だからでしょうか、それとも他に特別な理由があったのでしょうか、それはここでは判りません。ですが、イエス様は「強いて(弟子達を)船に乗せ」、先に出発させたのです。それにはイエス様のそうせねばならない強い意志を感じさせます。

 そうして御自分は群衆を解散させ、「祈るために山へ行かれた」のです。共同訳聖書では「行かれた」と在りますが、口語訳聖書では「退かれた」とあります。「行く」と「退く」では、その意味するところ、即ちニュアンスが違ってきます。普通「行く」と言った場合は積極的に叉は何か目的を持ってということに使われますが、「退く」の場合は「・・・・から」引き下がると言ったように使います。「行く」とは旅行に行くとか芝居を見に行くとかです。「退く」は今於かれている環境とか立場から、自分の身を他の環境などに移す時などに用います。例えば、仕事で二進も三進も行かない、ただただ疲ればかり感じてどうにも行かない様なとき、人はその環境から離れて原点に返るのではないでしょうか。

 イエス様が祈るために山へ退かれたのだとしたら、イエス様がその活動、即ち悪霊に取りつかれている人を癒したり、五千人の空腹の群衆に食べ物を与え満腹にされたような活動から一時身を引かれたのです。ですからここでは口語訳の「退く」という言葉の方が「山へ行かれた」というよりも、御自身が「山へ退かれた」と訳す方が理解しやすいと思います。

 それでは、何のためにその場から退かれたのでしょう。「祈るために」山に行かれたのです。イエス様の「祈り」については、「ゲツセマネの祈り」が知られているように、お一人で祈られています。それは全てを神様に委ねて、今ある、そのままを、共にいて下さる神様と交わる祈りです。

 私達も「祈る」時、それは懺悔でありお願いであったり感謝であったりします。しかし、どの様な祈りでも、いつも神様のみ心の内にあって、わたし自身の全てを神様に委ねることではないでしょうか。旧約聖書の詩編は祈りの記事が沢山詰まっています。それは「吐露する」という言葉がありますが、その通りだと思います。
イエス様の祈りは、弟子達、いや全ての人達への祈りです

 さて、イエス様と別れた弟子達は、船でベトサイダに向かっていました。夕方になると船は湖の真ん中に来ていました。湖とはガリラヤ湖、旧約時代はキネレト湖と言われていました。そのころイエス様はまだ陸地に居られました。ところが逆風が吹き、船が前に進むことが出来なくなりました。ガリラヤ湖はその地形から突風というか強風が度々吹く所だったようです。同じマルコ書の4章35節から41節にもガリラヤ湖上で嵐に遭遇し、それをイエス様が沈めるという出来事が在りますが、ガリラヤ湖は天候の急変する所だということが判ります。

 夜が明ける頃、弟子達が強風で苦しんでいる様子を見て、イエス様が湖上を歩いて、弟子達が乗った船に近づいてきました。すると主イエスは「そばを通り過ぎようとされた」のです。「通り過ぎようとされた」この出来事は旧約時代のモーセに起きた出来事を思い出させます。それは出エジプト記33章の21節から23節に記されています、「主は言われた。『見よ、一つの場所が私の傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。我が栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」この出来事はモーセが主なる神から再び戒めの石の板を授かる時の事です。

 主なる神は、ここでは「通り過ぎて」います。神様は自らを啓示されるとき、「あなたはわたしの後ろは見るが、わたしの顔は見えない」とあるように、「後ろ姿」か、「ささやく声」で啓示されます。

 ここでも、イエス様は弟子達の乗った船の傍を「通り過ぎようとされた」という言葉は、イエス様の「わたしである」という言葉と共に、主イエスが「神として」自らを弟子達の前にハッキリと示されたものです。主イエスは、人としてこの世に生まれましたが、ガリラヤ湖の湖上で、湖上を歩いて弟子達に近づき、御自身が神であることを示されたのです。

 主イエスが弟子達を先に、それも「強いて」先にベトサイダに行かせたのは、正にこの事を、即ち御自身が人としてこの世に生まれながら、また同時に神であり人々の救い主であることを示すためでは無いでしょうか。

 しかしながら、弟子達は近づいてきた主イエスを見て幽霊だと思いおびえました。常に、主イエスと行動を共にし、寝食を共にしてきた主を見間違えることなど想像も出来ないはずなのに、それでも主イエスを主であるとは思わず「幽霊」だと思ったのです。まさか、ここに主イエスが現れるとは思いもしなかったのでしょう。それは主イエスを信じて従いましたが、未だ、その信仰は道半ばと行って良いのでは無いでしょうか。その信仰の揺らぎが幽霊だと思わせたのでしょう。そんな弟子達に主イエスは「安心しなさい」、しっかりするのですと声をかけられたのです。

 弟子達が逆風に悩まされて、前に進むことが出来なかった、今、目の前にある苦難に悩ませられることは決して弟子達だけのことではありません。人は、誰でも日ごとの生活の中で色々のことに遭遇します。前に進むことが出来ない様な出来事もあります、後退することも出来ず身動きが出来ない様な事に出会い、ただただ諦めてしまうことに遭遇することもあります。その様なとき人は何を思い、何をするのでしょうか。

 その様なときにあっても、ただ立ちつくすしかないときにも、主イエスの方から「通りすぎ」即ち近づいて下さるのです、既にあなたの傍らに居て下さるのです。
なぜなら「大祭司は、御自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです」と御言葉にあります(ヘブライ書5:2)。主イエス自身が人の弱さを知っているから、私達の苦しみ、弱さが判るのです。「安心しなさい」とは、すでに「貴方のことは判っているのです」という意味なのです

 主イエスは、人としてこの世にお生まれになられましたが、弟子達に示されたように神であり、救い主であることを人々に示されているのです。

 神様は、モーセに石版を与えるとき、モーセの事を思い、モーセの顔を御自分の手で覆い隠しました、それは神様のモーセを思う神様の愛です。

 主イエスは御自身が神であることを弟子達にこの事を通して示されようとされました。それは弟子達を思い、愛していたかです。主は私達に対しても何時も思いやって下さるのですから、その事を信じ、確信して主と共に進みなさいと。主はいつも、どの様な時にも主の方から近づいてこられるのです。

 この一週間も主の導きの下に在りますようにアーメン。