2018年9月16日 聖霊降臨後第17主日「喜びを語る舌」

マルコによる福音書7章31~37節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

評判を聞きつけたのでしょう、主イエスの下に、耳が聞こえず、舌の回らない人が人々に伴われてやってきました。この人がいつから耳が聞こえなくなり、舌が回らなくなったのか、または生まれつきだったのかはわかりません。ただ35節で「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」とありますように、全く聞こえず、全くしゃべれなかったというわけではなかったのでしょう。聞こえるには聞こえるけれど、うまく聞き取れず、うまく聞き取れないから、思うようにしゃべることができなかったのだと思います。

 まず主イエスはこの人を群衆の中から連れ出しました。そこで一対一になったのでしょうか、この人は神様のみ前に立つのです。その時、主イエスはこの人に手を置いて、ただ「治れ」と言ったわけではなかったのです。聞こえない耳に指を差し入れ、回らない舌に唾をつけて、その舌に触れられたのです。主イエスはこの人に「触れられた」ということです。聞こえない耳と回らない舌に。聞こえない耳と、回らない舌、それはこの人にとって、苦しみそのものを表していると言えるでしょう。どれほどの時を、その苦しみに支配されていたことでしょうか。

 私たちもそれぞれに苦しみや悩み、痛みを抱いて生きているかと思います。そういう部分は人にはなかなか見せたくないものです。触れられて欲しくないものです。だからその思いを隠しているのかしれません。それでも、心の奥底ではこの自分の苦しみや悩み、痛みをわかってほしい、共感してほしいという思いを抱いております。そういう自分にしかわからない気持ちがあります。

 今、主イエスがこの人の耳と舌に触れられたことは、この人の苦しみ、痛みの只中に入って行かれたということであります。辛かったね、苦しかったね、でももう大丈夫だよ、治るから。そういう医療行為のことを御言葉は告げているわけではないのです。主イエスはこの人の苦しみ、痛みそのものと言える聞こえない耳、回らない舌に直接触れられ、その苦しみを我が苦しみとして受け止めてくださっているのです。ようするに、この人を憐れんでくださっているのです。そして主イエスは、天を仰いで、深く息をつき、この人に「エッファタ」と言われました。深く息をつく、これはため息をつくとか、呻くという言葉です。深呼吸して、気合を入れますということではないでしょう。この人の苦しみに触れて、ご自身もこの苦しみの前に、呻いておられる、そんな主イエスの姿がここに描かれているように思えます。天を仰いで、天の父なる神様に向かって、その息を吐いている。神様に執り成しているのです。主はこの人に「エッファタ」と言われました。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(35節)と言います。耳が開き、舌のもつれが解けた、すなわち閉じられていたもの、束縛されていたものから、この人は解放されたというのです。

 エッファタ、この主イエスの権威ある言葉によって、この人は「はっきりと話すことができるようになった」と言います。この「はっきりと」というのは、正確にという意味でもあります。その正確さとは、ただ滑舌が良くなって、聞きやすくなったということではないでしょう。その語られる言葉に命が与えられ、生きた言葉として語りかけ、人々が聞くことができるようになったという正確さではないでしょうか。耳が聞こえず、舌が回らない。聞こえているけれど、聞こえておらず、だから語ろうとしても、舌がもつれてしまう。正確に語ることができないのです。正確に語れず、その言葉を相手に理解してもらえないことは、本当に辛いことです。同時に、聞こえない、聞き取れないということもそうです。誰しもがそういう体験をしているのではないでしょうか。

 私事で恐縮ですが、神学生の時に私の指導をしてくださいましたある牧師先生から、こういうことを言われました。「君は正しくあろうとしている、そうしなければいけないと思い込んでいる」と。その時は、その言葉の意味がわかりませんでした。正しくあろうとしている、自分が正しいという認識をもっているつもりなどないと思っていましたが、やはりそれは行動や姿に出てしまうものです。牧師とはこうだ、教会とはこうだ、礼拝とはこうだ、説教とはこうだ、そして聖書の言葉の意味することはこういうことだと、自分を軸にして、決めつけている自分の姿があるのだと思います。正しいことをすること自体は大変良いことですけれど、こうでなくてはいけないと決めつけ、正しくあろうとする姿に、私自身自分が閉じられているのだなと感じました。だから本当は自分自身も正確に聞けていなくて、語れていないのだと気づかされるのです。神学校は牧師を養成する教育機関でありますが、ただ牧師としての職務を覚えるところではなく、とことん「自分自身」を打ち砕くところであると言えます。自分自身が打ち砕かれて、主の御言葉によって耳が開かれ、そして語るべき福音が与えられるのですね。それはまた、神学校だけではないかと思います。礼拝を通して、一人一人が神様のみ前に出るとき、神様の御言葉の前に打ち砕かれる体験をするのではないでしょうか。しかし、主は閉じられている耳と舌を無理やりこじ開けられる方ではないのです。そんなおまえはだめだと言って拒絶し、無理やりこじあけてすべてを破壊するのではないのです。むしろ、閉じられて、苦しんでいるこの私を憐れんでくださる方なのであります。閉じられている私の耳と舌に触れて下さり、愛をもってして開かせてくださる。開かれた耳と舌をもってして、隣人と語り、福音という神様の喜びの内に共々が生きるようにと、そのような開かれた人生へと主は導いてくださり、新しい歩みへと、新しい一週間へと遣わしてくださるのです。

 人々はこの光景を見聞きしていたのでしょう。主から口止めされますが、人々は言います。「(人々は)すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」この人々の驚きは非常に強い驚きです。我を忘れるほどの驚きです。その驚きから、主イエスのなさったこと、主イエスの御業、御心を賛美しているのです。我を忘れるほどの驚き、私が考えつく範疇では計り知れないほどに、神様のなさるご計画はすべてに行き届いている。それは無駄なく、無意味なことでもなく、すべてすばらしい良いことであると人々は言うのです。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。そのように、開かれた歩みへと日々導いてくださる主イエスが、私たちと共にいてくださる、世の終わりまで共にいると約束してくださった主イエスが共にいてくださるのです。

 そして主イエスは、そのなさることを成し遂げるために、道をいかれます。それは十字架への道であります。閉じられている私たちへの憐れみがこの十字架のみ姿に現わされているのです。主イエスはこの十字架の出来事によって、命をかけて私たちを開かれた人生へと招かれるのです。

 神様のなさることはすべてすばらしい。開かれたものの耳がそのように聞き取り、開かれた舌がそのように喜びを語るのです。このマルコ福音書の最初の方で、宣教を開始された主イエスはこのように言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(1:15)主は苦しみ、悩み、痛みが伴うこの世界に、私たちの只中に愛におけるご支配の下に、世界を開かれました。神様の方から、主イエスというお方を通して、閉じられている私たちに近づいてきてくださったのです。ただただ驚くばかりです。驚くばかりに、主のなさることはすばらしい。主の到来によってこの世界は開かれたのです。どうぞ、私たちのもとにきてくださり、私たちを招いて下さる主に委ねて、私たちも開かれてまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。