2018年10月7日 聖霊降臨後第20主日「一杯の水が小さな愛となる」

マルコによる福音書9章38~50節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週は台風の嵐の中、宣教70周年の記念礼拝と祝賀会を執り行い、多くの方にご来場いただき、共に祝い、共に喜び、そしてここからまた新しい六本木教会の歩みを始めることができましたことを感謝申し上げます。70年の教会の歩み、福音伝道の活動に携わる一人ひとりの働きを覚えます。それは、教会員の方だけではなく、教会関係者の皆様との関わり、また教会員のご家族の皆様、ご家族の理解の上に、活動が成り立っていることを深く覚えます。主の御心を祈り願いつつ、主の御業に仕えているのは教会員の方だけでなく、教会を覚え、集ってくださる方でもあり、また祈ってくださるかたでもあります。神様は多くの人を用いて、それを可能にし、実現されるかたであります。

 今日の福音書で、主イエスは「わたしたちの味方」という人たちを挙げています。わたしたちに逆らわない者は、全て味方であるというのです。主イエスが言われる味方は、立場を超えて、自由に一人ひとりが同じ目的、目標に向かって共に歩んでいく仲間です。主イエスはその一人ひとりを受け止められ、大切にされる方なのです。

 主イエスが味方の話をされたのは、弟子のヨハネの発言と思いからでした。ヨハネを含む12人の弟子たちは、すぐ前の箇所で(9章33~37節)誰が一番偉いかという順位争いをし、自分の立ち位置を非常に気にしていました。主イエスは彼らに、一番先になりたい者はすべての人に仕える者となりなさいと言われました。そうして主イエスに仕え、従っているのは自分たちであるという確信が芽生えていったのでしょう。今度は外の人たちが気になり出します。そしてヨハネがその目撃者となり、行動にでました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」彼は、わたしたちに従わないのに、主イエスの名前を勝手に使うことに腹を立てていたのでしょう。さらに、主イエスのお名前を使えば、悪霊を追い出すことができるということも知ったわけです。主イエスのお名前を使うだけ使って、主イエスと自分たちに従わない、一緒に活動しようとしない彼らにねたみと闘争心を抱いていたのかもしれません。

 でも、それだけヨハネも熱心であったということも伺えます。主イエスと共に伝道活動に従事し、一緒に行動していたのです。それなのに、主イエスの名前を勝手に使って、自分たちと一緒に主イエスに従わない彼らの姿があり、それが気に食わないのです。ヨハネは自分たちと一緒にということに拘っていたのでしょう。自分たちと一緒ということに私たちも拘ります。一緒にしない、やらない人を私たちは受け入れられないことが少なからずあるのではないでしょうか。それは自分の考えややり方に相手を合わさせようとするものです。主イエスの近くにいて従っている自分たちとは違い、主イエスに従わず、勝手に主イエスのお名前を使っている彼らを受け入れることはできず、それをやめさせようとしたわけです。

 しかし、主イエスは「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」と言われ、その人たちも私たちの味方であると言われるのです。主イエスは別にやめさせなくてもいいのでは、とは言われず、敢えてやめさせてはならないと言われました。立場がどうあれ、主イエスの名を使って奇跡を行うことにより、悪霊が追い出されているという喜びがそこに起きているのです。ヨハネたちとは違う立場で、違うやり方で奇跡が起こり、喜びが現実となっていく。主イエスはそのことを受け止め、私たちの味方であると言われるのです。

 それはヨハネが思う一緒でなければならないという狭い了見を超えて、主イエスの名における救いの御業である神様の福音は自由で人間のルールに縛られないものであり、その人が救われるために主イエスのお名前を使うものであって、自分が主イエスのお名前を使うのに相応しいから、自分たちにその特権があるということではないのです。自分が相手と比べて、相応しいかどうかという拘りから、相手にどう主イエスの名を伝えていくのか、どう福音を宣べ伝えていくのか、という相手への関心に目を向けることが重要なのではないでしょうか。

 使徒パウロは自らの福音伝道の歩みについてコリントの手紙でこう言っています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(Ⅰコリント9章19~23)

 彼は、誰に対しても自由なものであると言いますが、それは自分の好き勝手に生きる気ままな自由さではなく、すべての人の奴隷となって、多くの人を得るための自由さであると言います。一見矛盾しているように聞こえますが、それはパウロ自身が福音の喜びに満たされ、福音に生かされている自分が真に自由とされているという確信から出ているものなのです。この喜びを他者に伝えたいという熱い思いが根底にありました。すべての人の奴隷となるというのは、すべての人に仕え、多くの人を得るというのは、神様と結ばれて、福音の喜びに満ちて欲しいということです。すべての人に仕えて、すべての人と同じところにたち、共に福音の喜びに与りたいという思いが込められているのです。そして、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」という言葉から、福音という主イエスのお名前が自由に伝えられていく可能性をパウロは証しするのです。福音のためなら、キリストが伝えられていくことが唯一の目的であり、喜びであるというのです。

 主イエスはヨハネも、自分の名前を使って悪霊を追い出している人も、味方であると言われ、それは福音が広まっていくあらゆる可能性を用いていることです。そのことを41節で主イエスはこう言われます。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」一杯の水を飲ませてくれる者、キリストの弟子を支援してくれる者の働きもキリストの働きであり、福音が宣べ伝えられていく小さな働きとなっていくのです。一杯の水に込められた小さな愛が、キリストの福音となっていく。一杯の水とは様々な関わりを表しています。キリストの弟子かどうかという枠を超えて、一杯の水を与えてくれる働きは報われると言いますから、それを神様が用いて、御心となさってくださるのです。全て一緒にしなくてはいけないことはなく、福音は自由に、あらゆる可能性を秘めて、前進しています。そのために神様はあらゆる人を用いて行かれるのです。

 私たちはキリストの味方とされています。わたしだけの味方ではなく、あの人の味方でもあるのです。だから、それぞれが神様の御心を行う器とされ、互いに補い合って、愛し合い、共に仕え合って、歩んでいくのです。一杯の水が小さな愛となり、渇きが満たされます。そうして教会は支えられています。教会にいる者たちのつながりとなっています。神様はそれを実現してくださるのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。