2018年10月14日 聖霊降臨後第21主日「小ささから見えるもの」

マルコによる福音書10章1~16節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われます。神の国とは、神の愛と恵みに支配されているところと言いますが、子供たちが体験したことと同じように、主イエスに抱かれて祝福されることが神の国を受け入れるということです。それは抱かれるほどの子どもの体でなければならないということではなく、祝福とはひれ伏していただくものでありますから、神様の前に心からへりくだって、自分が小さくなることであります。それはペトロの手紙で「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。」(2章2~4節)と言われるように、乳飲み子が母親の乳をしたい求めるように、乳飲み子のごとく小さくなって主イエスのもとにある祝福を受け入れて、霊的に成長して救われるということです。

 子供そのものになるのではなく、子供のように神の国を受けいれる存在となるよう、主イエスは全ての人に呼びかけています。主イエスは子供たちを無条件で受け入れたのです。しかし弟子たちは子供たちを拒もうとしました。主イエスに触れてもらおうとする子供たちの姿をみて、なぜ拒んだのかという具体的な理由はわかりませんが、子供たちが主イエスから祝福を受けるのには値しない存在だと受け止めていたからでしょう。病を治したり、悪霊を追放したりするのとは違い、ただ主イエスに触れてもらうためだけに、主イエスを煩わせることなどもってのほかだと思ったのかしれません。またそれは、弟子たち自身にも向けられた煩いだったのかしれません。神様の教え、律法も知らない子供たちは大人しくしていてほしい。主イエスと同じように、自分たちも忙しくしていて、疲れているから、構っていられないと思ったのかもしれません。

ところが主イエスはこの弟子たちの行為に、大いに憤られたと言います。同じ物語が記されているマタイとルカの福音書にはこの主イエスが憤られたという言葉が省略されています。一番最初に書かれた福音書であるマルコ福音書にはこの主イエスの憤りが記され、それが弟子たちに大きな影響を与えているのです。主イエスはこれまでの弟子たちの姿や態度、理解の乏しさに呆れ果て、積もりに積もって、ここで憤りを顕されたのではなく、子供たちを拒んだ彼らの姿に激しく怒ったのです。神様の祝福の道を遮った彼らの姿に対してです。祝福はこの世の幸福や平和を願うものではなく、その人が神様に属するものとされる、神様のものとされて、その存在を肯定されることです。それほどに重いものであります。それを拒んではならないと主イエスは憤られたのです。憤られるほどに、主イエスは子供たちを迎え入れることを望まれたということでしょう。そのような主イエスの憤りには祝福を得るための戦いが描かれているようです。祝福を拒むものから、拒む力から何としてでもあなたを祝福に与らせたい、祝福の中で生きて歩んでほしいという主イエスの願い、愛が込められているように思えてなりません。

そのように、主イエスのほうから招いてくださっているのです。しかも、この子供たちは人々に連れてこられたとあるように、終始受身であります。子供とは幅はありますが、12歳くらいまでの子を言っていたそうですが、乳飲み子もいたことでしょう。神様の教えを知らず、人数にもカウントされなかった子供たちが、主イエスのほうから招かれているのです。そして、ここに記されている人々とは誰なのか、明確にはわかりません。おそらく子供たちの両親であるかと思いますが、子供たちを主イエスのもとに連れて行くことが弟子たちの使命であり、教会の宣教と言えるものではないでしょうか。

また弟子たちも教会も主イエスによって招かれ、主の祝福のみ腕の中に置かれていることを覚えたいと思うのです。自分たちの力や知恵、功績によって勝ち取った祝福の恵みではなく、ただ主イエスの招きによって導かれていることを覚え、心を開いて自分を神様に明け渡していくことが問われているのではないでしょうか。子どもを導くだけではなく、自分自身が主に抱かれて、祝福を得る。そのために、自分自身がへりくだって、小さくされ、その小ささから見える神様の恵みに信頼して与ることを主は望まれているのです。

子供たちが純粋無垢で、罪がないから神の国に入れるということではありません。神の国に招かれているのは、主イエスご自身だからです。子供のようにとは、主イエスがアッバ父よと言われたように、父なる神様に信頼を寄せる子供のように、その身を委ねることです。

そして、この主イエスの祝福は十字架と復活のみ業を通して明らかにされました。弟子たちは主イエスを捨てて、主イエスから離れてしまいましたが、復活の主イエスが彼らの只中に現れてくださって平安を与えられ、彼らは赦しを経て、主イエスの真の弟子となり、主イエスの祝福の内に遣わされていくのです。神様と共に生きる祝福の道を彼ら自身が体現し、それを人々に伝えていきました。子供たちを拒み、主イエスを憤らせて、十字架につけてしまった彼らが赦されたことによって、彼ら自身が子供のような心となり、その心に生きることができたのです。そして、主イエスが「私は罪人を招くためにきた」という言葉が生きてまいります。罪人は見捨てられるのではなく、招かれている。祝福に招かれているのです。子供そのものではなく、小さいものから全ての者が招かれているのです。神様の祝福から外れている人はいないのです。この祝福に与り、この祝福を宣べ伝えていく使命を教会の宣教活動として、祝福の器となることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。