2018年10月21日 聖霊降臨後第22主日「欠けているものが一つ」

マルコによる福音書10章17~31節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 アッシジの聖フランシスコという13世紀の修道士がいます。特に、彼自身の作ではありませんが、彼の精神をよく伝える祈り「聖フランシスコの平和の祈り」は、キリスト教会の中では有名でしょう。ちょっと読んでみたいと思います。
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。わたしに もたらさせてください……。憎しみのあるところに愛を、罪のあるところに赦しを、争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真理を、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところには喜びを。ああ、主よ、わたしに求めさせてください……。慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを。人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見いだし、赦してこそ、赦され、死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
前半は「憎しみのあるとこに愛を」、「絶望のあるところに希望を」と言った歌詞が続きますが、後半は「慰められるよりは慰めることを」、「理解されるよりも理解することを」、「愛されるよりも愛することを」と言った、難しく、重い印象を受ける歌詞が続きます。後半の歌詞は「自分からしなさい、自分から与えなさい」と続けて言っています。これらの内容を言葉通りに実際に守らなくてはいけないということを考えると、これは戒め以外の何ものでもないでしょう。好きな人にはできるかもしれません、しかし嫌いな人に対してはどうでしょうか。できるかと言われれば、できないと答えるしかないかもしれません。ですから、もうこれは修道士にしかできない、修道士だから守ることができる内容の祈りであり、自分にはとてもできないと思ってしまいます。

 この祈りのモデルになっていますアッシジのフランシスコ自身の、その生い立ちを見て見ますと、彼は元々裕福な家庭に生まれ育った人でした。彼は青年時代を、家の財産を使って、友人たちと遊びほうける日々に費やしていたそうです。ある時期から彼は好奇心あって、騎士になることを望み、各地の戦場に赴きましたが、大けがをし、病に侵され、闘病生活を余儀なくされます。その時から彼は不思議な声を聞くようになったそうです。彼はそれが神様の声だと知りました。そしてこういう御言葉を聞いたのです。「フランシスコよ、私の望みを知りたいのなら、まずお前がこれまで愛してきたものすべてを憎み軽蔑せよ、そしてこれまで嫌ってきたものすべてを喜びの泉とせよ」。彼はこれまで頼みとしてきた富を捨て、全く関心がなかった貧しい人々と関わり、施すことに喜びを抱きなさいという神様からの招きを受けたのでした。彼はそれから自分の財産を教会や施設に寄付し、積極的に貧しい人々と関わるようになったそうです。かつての友人たちは、そんな彼の姿を見て、嘲り、罵ったと言われています。そして、彼は、家の財産権、相続権、身分などを全て捨てて、家を飛び出し、方々を訪ねまわって、やがて修道院を設立しました。それが托鉢修道会である聖フランシスコ修道会です。彼はこの修道会の運営に携わりつつ、生涯、清貧を貫き、主イエスの生涯を模範としながら、貧しい人々に奉仕しました。その彼の精神が、それはキリストに仕える者としての姿が最初に読んだ平和の祈りに示されているのです。フランシスコの人生を一変させた神様の招きの御言葉、この招きの御言葉を、今日の福音から私たちも聞いているのであります。もちろん、私たちがフランシスコのような修道士になることは困難でしょう。しかし、彼のような業績を残すということはできなくとも、平和の祈りに記された「自分からしなさい、与えなさい」ということは、修道士ではない私たちと全く無関係なことではないということを受け止めていきたいのであります。

 さて、今日の福音でありますが、ある金持ちの人が、主イエスのもとに来て、永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいかと尋ねるところから始まります。主イエスはその人に問います。それは十戒の後半部分の内容でした。その人は答えます。「そういうことは、子供の時から守ってきた」と。子供の時から、神様の教えを守ってきたということは、もうユダヤ人の模範生ということができるでしょう。フランシスコも金持ちでしたが、彼は青年時代を遊びほうけて暮らした道楽者です。この金持ちの人とは、人生の歩み方が違うのです。子供の時から守り続けてきた神様の教え故に、どうすれば永遠の命を得て、救われるのですかと、彼は訪ねているのです。

 その真剣さは、主イエスの下に走り寄り、ひざまずく姿から十分に伺えます。当時のユダヤ社会においては、神様の律法を守り、富みにあふれる人は、人々の模範となるだけでなく、神様から特に祝福されている者として見られていたのです。ですから、彼のような人物こそ、真に永遠の命に与れる状況を造りだしていたと言っても過言ではないのです。彼自身、自分がそのような人物であり、そのような状況に置かれていたことを十分に把握していたことでしょう。しかし、同時に焦りと不安を感じていたことも事実だと思います。子供の時から守ってきた神様の教えを、今も守っているはずだが、しかし、本当の救いが自分には与えられていないのだと。何が足りないのか、何をすればよいのかと、彼は主イエスに訪ねているのです。彼は目に見える外面的な行為の中に、その条件を見出そうとしたでしょう。もう自分自身は、永遠の命を受ける近い立場にあるのだから。そういう確信がないと、とても神様の教えである十戒、すなわち律法を守ってきましたとは言えないはずだからです。

 そんな彼に「あなたに欠けているものが一つある」主イエスは彼の欠けているものを指摘しました。確かに足りないもの、欠けがあったのです。しかし、それは彼自身の内面的な問題でした。物を売り払って、貧しい人々に施し、私に従いなさい。これが主イエスの答えでしたが、彼はこの答えを受け入れることができず、悲しみながら立ち去ったと記されています。多くの財産を持っていたから、これが聖書に記されている答えですが、23節の主イエスと弟子たちとの会話の中ではっきりと主イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言っています。それはあたかも、試験を受ける前に、結果が出ているようなものです。主イエスは、金持ちの人の内面性をご存知でした。既に、彼が財産に囚われている姿を見出し、永遠の命、すなわち神の国を妨げている要因となっているものに目を向けていたことがわかるのです。金持ちの人は、確かに子供の時から神様の教えを守ってきたのでしょう。そうであれば、貧しい人に施しをしていたのかもしれません。しかしそれは、彼が財産を目的の手段として、用いていたからであって、財産を手放すということにはならないのです。いやむしろ手放すことはできないのです。私たちは、人が何か拠り所とする、頼れる物をそう簡単に手放すことができないということを知っています。それは執着心というより、それがないと不安だからです。生きていけないからです。それらを手放しなさいと言われたら、私たちもまた悲しみながら、主イエスの下を離れていくでしょう。私たちは「与える」ということの困難さを経験しているのです。

 それでは、私たちは金持ちではないから大丈夫だと言えるでしょうか。その言葉に表されているのがペトロの姿なのです。「私は何もかも捨てて、従ってまいりました」と。しかし、私たちはペトロをはじめ弟子たちが主イエスを見捨てて、逃げ出してしまったことをも知っているのです。彼らもまた主イエスに従うことはできなかった、具体的には「十字架」に従うことはできなかったのです。今十字架への旅路を進まれる主イエスと弟子たちの道は、同じ方向を目指しているようであって、目指してはいないのです。彼らもまた欠けたるものなのです。「それではいったい誰が救われるのか」、弟子たちのこの言葉は私たちの言葉でもあります。私の救いとは何かと。たとえ様々な自分の拠り所とする物、頼れる物に頼ってしても、それらでは解決できない問題、不安が私たちの人生にはたくさんあるのです。だからこそ、私たちも、この金持ちの人と同じように問いたくなるのではないでしょうか。何をしたら救われますかと。

 しかし、私たちは主イエスとこの金持ちの人との出会いを印象深く見つめることができるのです。いや、それ以前に、私たちが主イエスによって既に見つめられていることを知るのです。主イエスはこの金持ちの人を慈しまれた、具体的にこの言葉は「愛した」という意味なのです。悲しみながら立ち去る彼を、追い立てたのではなく、じっと見つめておられたのです。そのまなざしは弟子たちにも向けられていました。欠けたる者を責め立てるのではなく、ただ見つめ、愛したということなのです。どこを向いても、どのようなあり方であっても、この愛のまなざしを向けて下さるのは、今十字架への途上にある主イエスただおひとりなのであります。この愛のまなざしが自分に向けられていることを知るとき、その恵みを知り、その恵みのみによって生かされていることを知るときに、私たちはこの方に従うことができるのです。

 ヨハネによる福音書3章16節から17節には次のように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様の御旨は、愛する御子主イエスをこの世界を救うために遣わされたことに示されているのです。この愛する御子を信じる者に、永遠の命は既に約束されているのです。この恵みを私たちは受け取ればいいのです。欠けたる私たちでも受け取れるのです。なぜなら、主イエスが私たちを愛のまなざしで見つめてくださっているからなのです。

 そして、フランシスコの平和の祈りに記されている言葉も、私たちに道徳でも戒めでもない言葉として見えてくるのです。主イエスこそが私たちを慰めて下さり、理解してくださり、愛してくださる。そのためにご自身が十字架の死を身に受けて、復活の希望を成し遂げてくださった出来事が、福音として私たちに宣言されているのです。それが私のために為されたこととして、救いの確信を得ることができたとき、その恵みを隣人へと向けていくことができるのです。

 教会はまさしく、大きくても小さくても、与え合う者たちの群れであることを願っております。その姿を私たちはまず初代教会の時代に見ることができるでしょう。使徒言行録4章32節から34節にこうあります。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」主イエスがその愛のまなざしをひとりひとりに向けて下さり、心も思いもひとつにし、愛し合う群れとして、私たちの歩みを導いてくださる方として共にいてくださいます。その方に従う幸いを、心から願ってまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。