2018年11月4日 全聖徒主日「勇気を出しなさい」

ヨハネによる福音書16章25~33節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 全聖徒主日礼拝、召天者の記念礼拝にようこそおいでくださいました。教会の伝統では、11月1日が「諸聖人の日」として守られていますが、「聖人」という概念は、16世紀の宗教改革以前の教会(ローマ・カトリック)におきましては、敬虔な信仰に生き、善行を積んで社会に大きく貢献した徳の高い人(聖人崇拝)を指します。宗教改革者たちはその概念を取り除き、キリスト者は全て聖人(聖徒)であると主張したので、プロテスタント教会では聖人崇拝と言う信仰はなく、ルターが言うようにキリスト者は全て神様の御前において「義人であり同時に罪人」でありますから、人間の善行や働きによって、信仰者としての区別が成されるという概念はないのです。

さて、この全聖徒主日礼拝におきまして、私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、お祈りを致しますが、召された方はどうなったのかという疑問があります。本日礼拝後に地下納骨室の祈祷会で読まれます聖書の箇所でもありますが、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節で「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とパウロが言いますように、神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されています。

 だから私たちは、先に召された故人を供養し、故人の平安を祈り求めるためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今ここに招かれているのです。そして、これは生者と死者の交わりのひと時ではなく、死の壁を打ち破られたキリストによって、先に召された者たちと私たちは結ばれ、共々今この礼拝の恵みに与っているのです。同時に、神様の御言葉を聞いているのです。

 さて、今日与えられた福音書の御言葉は、13章から続く主イエスの告別説教と言われ、いわゆる遺言と言われるものです。主イエスはこの後、主イエスに敵対する宗教指導者たちに捕まり、そして十字架につけられて殺されてしまいます。神の子である主イエスも私たち人間と同じように死なれるのです。主イエスが捕まった時、今ここで主イエスの説教を聞いている弟子たちも皆散り散りになって、逃げ出してしまうのです。主イエスは孤独の中で、一人死を迎えるのです。

 しかし、主イエスは今日の聖書の箇所で、こう言われます。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」世を去るということが十字架につけられて死ぬということを表しています。しかし、死んで終わりではないのです。父のもとに行くと言われるのです。父のもとというのは、天を指します。それは主イエスが死んでから三日後に復活して、天の父のもとにいくことを表しているのです。また、父のもとから出て、父のもとに行く。と言われますから、天の父なる神様の身許に帰っていく、いわばそこが主イエスの故郷であるということです。さらに「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」と言われ、父なる神様が自分と共にいてくださるという確固とした確信が主イエスを支えているのです。いずれ、父の身許に行く平安が与えられているから、今の苦難、苦しみの中を歩んでいくとは言われず、今既に父なる神様が共にいてくださる。苦難の中を共に歩んでくださるから平安であるというのです。

 だから、弟子たちに対してもこう言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」深い慰めに満ちた言葉です。世で苦難があると言われます。既に弟子たちは、将来における自分たちへの世からの迫害の予告を主イエスから聞かされていました。その迫害を免れて、迫害や苦難、困難と無縁の世界に生きていけるという保証はないのです。それは世の荒波の中で、苦難や困難を抱えて生きる現代の私たちの姿と重なります。

 そして、その世の苦難の最も大きな力が死の力ではないでしょうか。いずれ、誰もが通る死の時、その死の力の前に私たちは無力であります。死が人生の終着点であると思うことと、それが永遠の別れであることに深い悲しみと恐れを抱きます。その悲しみは愛する人の死を経験された後も続きます。時間が経てば、その気持ちが段々薄れていくとしても、なくなることはないのです。

 主イエスはその私たちに平和を賜る方です。その悲しみは決して一人で背負うものではないと。あなた一人で抱え込み、背負うものではないと。主イエスもまた死の世界に行かれたかたなのです。死の悲しみを避けたのではなく、それをご自分のこととして、担われる方だからです。主イエスはその苦難の現実を語りつつ、勇気を出しなさいと言われます。その理由は死の力である世に既に勝利しているからだと言われるからです。

 主イエスは世の力、死の力を避けたわけではありません。世の力を避けて、死を滅ぼして勝利したわけではないのです。その力の真っ只かを突き進まれて、死を経験されたのです。しかし、主イエスはいずれ勝利すると言われたのではなく、既に勝利されていると言われました。これから苦難を経験する、死を経験する。その苦しみがいずれ終わる時が来るとは言われず、もう既にその世の力に勝っていると言われるのです。それは、同じヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉が実現するためでした。主イエスはこの世に来られて、この世の力を超えて、神の愛が私たち一人一人に向けられているということと、そしてこの世を裁くためではなく、救うために、愛するためであると言われているのです。

 主イエスのこの言葉は世を徹底的に愛することによって、死に勝利した神様の御心です。その御心が十字架の死を超えた復活の出来事として明らかにされるのです。だから、苦難がある中で、あなたがたは勇気を出しなさい。この私があなたがたと共にいるからと約束してくださっているのです。死の力が強大で、深い悲しみに合うかもしれない。でも、その悲しみは主イエスの悲しみでもあり、共に負ってくださるのです。でも、それで終わりではないのです。その悲しみからの一歩を私はあなたに授け、あなたと共に歩んでいくというのです。それは主イエスの愛から、あなたが離れてしまうことはないのだと約束してくださっているからです。使徒パウロもローマの信徒への手紙8章37節から39節でこう言います。
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 死の力でさえも、キリストの愛、神の愛から引き離されることはない。それは主イエスが父なる神様と共におられるように、先に召された方も、今この世を歩んでいる私たちも神様の愛の中にあって、主イエスが共にいてくださることを約束してくださっている言葉なのです。だから、今、愛する人の死を覚えて、この場に集っている私たちは、愛する故人のお支えを覚えつつ、その故人がこのキリストと共にいることを覚えて感謝し、この世を生きてまいりたいと願います。そして勇気を出しなさいと言われる主によって立ち起こされ、このキリストと共に歩んでいくのです。このキリストから平和を、平安をいただき、この平安のうちに共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。