2018年11月11日 聖霊降臨後第25主日 「はるかに大事なこと」

マルコによる福音書12章28~34節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 本日は礼拝の中で子どもたちの成長を神様に感謝し、お祝いする子ども祝福式を執り行います。子どもたちの成長には驚かされることもあるかと思いますが、使徒パウロはコリントの手紙で「成長させてくださったのは神です。」と明言しています。神様が一人ひとりを愛をもって育んでくださり、大切に育ててくださっているのです。それは命の根源が人にあるのではなく、愛をもって人を造られた神様にあるからです。その愛の証しとして、主イエスは子どもたちを祝福する際に、子どもについて、弟子たちにこう言われました。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたと言います。神の国とは、神の愛が働くところであって、どこか特定の場所を指すものではありません。そして、子どものようにというのは、無邪気で純粋無垢な心を持つという意味ではなく、成長させてくださる方、養ってくださる方がいなければ、自分一人では何もできず、生きていけない者を指します。自分に何かができる、その自分の力や知恵によって神の国に招かれる条件となるのではなく、むしろ返ってそれらのものは神の国からは遠ざかる要因となるのです。ただ神様の御手の内にあり、主イエスに抱かれているものが既に神の国、神の愛の中に生かされているのです。

 ただもちろん、神の国に招かれているのは、子どもたちだけではありません。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさいと言われて、主イエスは宣教を開始されていったのです。悔い改める、それは自分から神様の方向に思いを向けて、神様の愛の中に立ち返ること、帰っていくことです。そうして全ての人が神の国に招かれているのです。

今日の福音書では、主イエスに質問し、適切な答えを言った律法学者が主イエスから「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。この人も神の愛、主イエスの祝福の内にあるのです。彼は前から主イエスと他の宗教指導者たちとの議論のやりとりを聞いていたのでしょう。主イエスに反発するものが多くいる中で、彼は主イエスの答えを立派なものとして受けとめていました。この立派という言葉は見事という意味もあります。単に理想高い立派さということではなく、見事な答えである、的を得ている答えであると受けとめているのです。主イエスを信じて今度は彼が質問しました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」掟、それは神様の教えである律法です。律法はかつて預言者モーセを通してイスラエルの民に与えられ、十戒をベースに、全部で600近くもある神様からの掟です。その多くの掟の中で何が一番大切かと質問しました。主イエスの答えは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』この言葉は今日の第一日課である申命記6章4―5節の言葉で、ユダヤ人は子供のときから、この掟を守るために、親からこの掟を教え込まれてきました。そして、全存在を込めて、この教えを守るように教えられているのです。常に神様との関係を大事にしなさいといいます。

しかし、主イエスは続けて第2の掟のことも話しました。『隣人を自分のように愛しなさい。』そしてこの二つにまさる掟はほかにない。」と言われます。これは旧約聖書レビ記19章18節にある言葉です。いずれも主イエスは聖書の言葉をそのまま引用して教えていますが、あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。という彼の質問に対して、ひとつではなく、ふたつの答えを言われました。神様だけを愛しんさいと言われたのではなく、隣人を愛しなさいとも言われ、それらは切り離せるものではなく、ひとつの他にまさる掟ではないと言うのです。

隣人のことについては、十戒にも書かれていますが、このレビ記19章を見ますと、9節、10節にはこう書いてあります。摘み尽くさないように、わざと残しておきなさいと言います。それは貧しい者や寄留者など、土地を持てない人のためだと言われるのです。その人たちのことを思いやりなさいということです。また13節、14節にはこうあります。ここでも耳の聞こえない人、目の見えない人の前に障害物を置いてはならないと言われ、その人たちを労わりなさいと言うのです。いずれもこれらの隣人に対して、愛しなさいという主イエスの言葉が示されております。そして最後には私はあなたたちの神である、あなたの神を畏れなさいと言います。隣人を愛することが神を畏れることであり、愛することであるいうことなのです。逆に、隣人をむさぼり、虐げることは、神をも虐げて、軽んじることでもあるということです。

だから、神様の掟である律法は、小さい者、弱いものを保護するための教えであり、全て神様の愛に根ざしているものなのです。ただ神様だけを愛し、人と比べて、神様の前に自分を誇ろうとすることは、返って、神様を軽んじることとなり、自分だけを大切にしている姿が映し出されるのです。

また、主イエスはただ隣人を愛しなさいと言われたのではなく、「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われたのです。自分のように愛するということは、自己愛のことを思い浮かべるかもしれませんが、自己愛はどこまで言っても自分中心の愛であり、それは他者中心の愛ではないのです。自分の都合のいいように隣人を愛しなさいということではないのです。それは神様との関係において、まず神様が自分のことを愛しているところから生まれてくる愛なのです。

ヨハネの手紙にこうあります。(ヨハネの手紙Ⅰ4:19―21)隣人を愛するということ、それは何よりも神様から自分が愛されていることを信じることであり、そこから隣人への愛が生まれてくるのです。

私たちは神の国から遠くないのです。神様の愛によって生かされている。その望みをもってして、主の愛の中にあって、共に助け合いながら、歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。