2018年12月2日 待降節第1主日 礼拝「建て直し」

ルカによる福音書19章28~40節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 教会暦では、本日の日曜日から救い主イエスキリストの御降誕を待ち望む「アドベント」と言われる時期に入りました。クリスマスに向けて、今日アドベントクランツには、まだ一本のろうそくにしか火が付いていません。でも、だんだんとろうそくの火が増えてきます。現実の厳しい暗闇の中を歩む私たちにだんだんと光がもたらされていくように。この光を見失わないように、そして、クリスマスを迎えるこのアドベントの時期に改めて、神様の愛が、御子主イエスキリストを通してひとりひとりに示されていることに、目を向けていきたいと思います。

 このアドベント、待降節の第1主日に読まれる福音書の中に、人々から期待されている主イエスのお姿があります。エルサレムという中心都市、立派な神殿があり、人々が賑わう地に、主は入っていかれました。人々は自分の服を道に敷いて、主イエスを出迎え、弟子たちは「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(19:38)と歌いました。歌ったというより、叫び声に近いものであったでしょう。街中はパレード状態です。主イエスに対する期待、やっと苦しみから解放される喜び、人々の思いがここに集約されています。

 この弟子たちの賛美は、詩篇118編26節の言葉から引用されていますが、天には平和、いと高きところには栄光。という言葉はルカによる福音書にだけ記されています。この言葉を聞くと、クリスマス物語で、羊飼いたちに現れた天使の歌「いとたかきところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に叶う人にあれ」(ルカ2:14)という言葉を思い越すかもしれません。平和という言葉があります。そして、このエルサレムという都市は「平和の基」という意味があります。イスラエルの歴史の表舞台に出てくるのは、あのダビデ王がこのエルサレムを首都とした時から始まります。その息子ソロモン王は、立派な神殿を築きました。親子二代にわたって、エルサレムは活気のある都市になり、人々の宗教生活の中心地となっていくのですが、その後の歴史は、外国の侵略と解放の歴史を辿ります。主イエスの時代は、ローマ帝国の占領下の下、人々は巡礼に訪れ、経済の中心地、また政治的、宗教的にも勢力を誇っていた都市でしたが、ローマ帝国からの抑圧が人々の生活を苦しめていました。人々はローマ帝国からの解放をもたらしてくださる強い王様、救い主をあのダビデやソロモンのような力強い王様の姿に重ねて、願い求めていたのでしょう。そのような力、軍事力に長けた王様によって、ローマ帝国を追い出し、エルサレムが再び平和の基となることを求めていました。エルサレム、平和の基と謳われるその活気の中に、人々の嘆き、苦しみが満ちていたところでした。力における平和、力の支配における秩序の安定、それは現代においても求められていることです。

 しかし、人々の中央を行進していく主イエスがその行進の足とされたのは、王様が凱旋する軍馬ではなく、ロバ、しかも誰も乗ったことが子ロバでした。軍馬と比べて、全然ぱっとしないみすぼらしい子ロバの上に乗り、人々の前を凱旋しているのです。人々が求めているメシア象とは全然違います。ロバ、それは「平和、柔和、謙遜」の象徴なのです。いや、むしろ、主イエスご自身が平和の主であり、謙遜で柔和な方なのです。

 十字架の道に向けて、主の御用であるとして、主イエスが必要とされたのは、一匹のみすぼらしい子ロバなのです。主イエスはあたかも最初から計画していたかのように、この子ロバを手に入れるために、手際よくふたりの弟子を向こうの村に遣わされました。そして弟子たちはそこに繋がれているまだ誰も乗ったことがない子ロバをほどいて、主イエスのところに連れてきました。あたかも主イエスの目は最初からその子ロバだけに向けられていたかのようです。ロバという動物は、私たち日本人にはあまりなじみのない動物かもしれませんが、オリエントの世界では古くから人間の生活に欠かせない動物だったそうです。体は小さいのですが、足が丈夫で、耳が長いことから「うさぎ馬」と呼ばれているそうで、荷物の運搬によく重宝されました。写真でこのロバを見ると、確かに耳が長くて、たくさんの荷物を持たされていました。それはまるで、「人の一生とは重き荷を背負うが如く・・・」という言葉が示すように、私たち人間の一生に例えられるかと思います。確かに私たちの一生は、ロバのように重い荷物をずっと背負い続けている感じが致します。その荷物の正体が苦難とか、悲しみとか、苦労とか、そう言ったものかもしれません。苦労は買ってでもしろというように、重い荷物をたくさん背負っているかのように、忍耐して、努力して人生を歩んで行くことが、私たちの生きる世界において、美徳とされるのかも知れません。他者からの評価も高いでしょうし、注目の的になります。聖書はそう記しているのでしょうか。そのように、教訓的、道徳的な枠で理解するのであれば、子ロバにまたがる主イエスの姿に見向きもしないでしょう。

 主イエスは大人のロバではなく、縄に繋がれ、まだ丈夫でもないみすぼらしい子ロバに目を向けているのです。力ではなく弱さを選ばれたのです。この弱さを選ばれた主イエスに対して、私たちの期待からくる救いではなく、もう本当にどうしようもない、人生のどん底にはまり、そこから抜け出せない闇の淵からの救いを求める叫び声として、主イエスに届くのではないでしょうか。期待とかそんな余裕なんてない。生きるか死ぬか。罪の縄目に縛られ、死の境地に立たされている状況の中でこそ、この叫びはより響くのではないでしょうか。その叫び声のする方向に、主イエスはまず目を留められるのではないでしょうか。99匹から迷い出た羊である私たちを主イエスは善き羊飼いとして真っ先に見出してくださるのではないでしょうか。罪の縄目に縛られて、動けない私たちの叫び声に耳を傾けて下さり、私たちのために、十字架に架かって下さり、罪の縄目から解き放ってくださるメシアとして、主イエスは到来してくださるのです。

 このロバに跨る主のお姿は、私たちの目に見える望みを打ち砕くものなのかもしれません。私たちが望みとし、頼りにしているものを根本から打ち崩す全くの期待はずれということを現しているのかもしれません。主はこの後、この都のために涙を流して嘆かれるのです。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたら・・・」。(19:41)主はこの平和の基の地に、人々の嘆き、苦しみを見出されました。それは外敵からの抑圧だけでなく、真の平和、心の平和を見失っていた人々の姿があったからです。

 何も苦しみや困難、思い煩いがない状態を平和であると私たちは認識するかと思います。戦争がない状態を平和であると考えるかと思います。平穏無事を願うということは誰しもがそうだと思います。でもそれはどこで叶うのかはわかりません。むしろ、私たちが人として、この世の現実を生きていくということは、苦しみや困難と向き合っていかざる負えません。でもそれは苦しみや困難から逃げるなということではありません。時には逃げつつも、しかし、その只中にあっても、誠実に前を歩んでいく道が備えられているのであれば、希望があるのではないでしょうか。主が目に見える力強い軍馬ではなく、みすぼらしく弱い子ろばを選ばれて歩んで行かれるという姿の中に、私たちへの平和のメッセージが現されているのです。平和をもたらすであろうと期待されている主ご自身が忍耐され、現実の困難さの只中を歩んで行かれるということです。それは誰のためか、誰の弱さ、困難さ、しんどさのためか、それは他ならぬ私たちの弱さ、困難さ、しんどさの中にこそ主は到来してくださり、私たちの重荷を担って下さるということです。心の平和を見失い、道を見失っているものに、目に見える幸福な道、別次元の世界へと招待してくれるのではなく、その道は、人生という道はしっかりとゴールに向かって、備えられているということ。その道を歩むのはあなた一人ではなく、私が共にいる、共にいて導いてくれると約束してくださっています。主が行かれる道は、十字架への道であります。だから十字架の死が終点であるかのように思えますが、その先にある復活の道をも主は備えているということを、主は既に予告されているのです。復活というのは起き上がるということです。たとえ、途中で打ち崩され、倒されても、主は立ち起こして下さる、新たな命をもってして、ちゃんと私たちの歩みを導いてくださるのです。

 アドベント、到来、それは決して私たちが期待するようなもの、現実の苦しみ、困難な状況を一気に解決してくれる出来事ではないでしょう。ですから、この世を生きる私たちの歩みは変わりようがありません。しかし、私たちはその苦しみ故に、困難な故に、打倒されて終わるのではなく、その只中にあっても、主が先頭を切って、私たちの苦しみ、困難さの只中を歩んで下さるという道が備えられていることを覚えたいと思います。主がどこに到来されたのか、それは私たちの期待とする部分ではなく、弱く、もろいところにこそ、主は到来されるということ。その喜びを、アドベントは私たちに告げ知らせてくださるのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。