2018年12月9日 待降節第2主日 「荒野に注がれる恵みの水」

ルカによる福音書3章1~6節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 アドベントクランツに2本目のロウソクに火が灯り、待降節第2主日の礼拝を迎えました。福音書は、洗礼者ヨハネの活動が記されている御言葉から聞いてまいります。

 ルカによる福音書の記事には、皇帝ティベリウスを始め、当日の権力者たちの名前が記されています。そして、その権力者たちが支配していた時代、まさにその時に、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。とルカ福音書は記しているのです。下ったといのは、出来事となった、現実のものとなったという意味の言葉です。神の言葉が、その人間の歴史に介入した。現実のものとなった。支配者たちの名前が鮮明に記されているのは、その人間社会の時間軸を明確にし、まさにその時、神の言葉は出来事として起こったことなのだということを強調しているのです。

 そして神の言葉が下った人物は、権力者たちではなく、ザカリアの子ヨハネでした。父親のザカリアはユダヤの祭司で、ヨハネが誕生した時、ザカリアは聖霊に満たされて、ヨハネについてこのように預言しました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(ルカ1:76~77)その後には「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(1:80)とあります。ヨハネが突然出現して、彼の上に神様の言葉が下ったのではなく、既に主の道を先立って整えていく預言者として、神様から選ばれていたのです。荒野にいたヨハネは、宗教的な共同生活を営むユダヤ教のエッセネ派と呼ばれる宗派に属していた、という説があります。ファリサイ派などの人たちと違って、世俗に身を置かず、荒野で暮らし、禁欲的な生活をしていたのがエッセネ派と言われる人たちです。ヨハネはその厳しい生活の中で、いずれ「罪の赦しによる救いを人々に知らせる」日が来ることを確信して、望みをもってそこで暮らしていたのでしょう。そして今、ヨハネに下った神の言葉は、荒れ野で叫ぶ者の声として、荒野に響き渡っているのです。

 神の言葉は、人々が賑わうエルサレムなどの都市ではなく、人里離れた寂しいところで作物もほとんど育たない、乾燥した荒野の只中に出来事として起こりました。またそこは、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、」とあるように、深い谷があり、まがった道、でこぼこの道がある、複雑な地形になっている場所です。それは先行きの見えない道、乾燥している潤いのない荒野は、私たちの心と魂の飢え乾きをも表しているのではないでしょうか。また深い谷ぞこ、まがった道、でこぼこの道は、今日の複雑な社会情勢や人間関係を表しているのではないでしょうか。

 私たちの身近、また私たち自身の中にも存在する荒野、その乾きを満たすために、私たちは一喜一憂しながら、日々を歩んでいます。権力者たちが支配する豪華絢爛な町々、目に見える形ではそこは潤っていて、豊かさを象徴していますが、人の争いは後が断ちません。荒野の歪は既にその中にも示されているのです。

 ヨハネは神の言葉がその乾ききった荒野にまるで潤いをもたらすかのように、力強く人々教えて回っているのです。3節で「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。罪というのは、神様と人間の関係が離れている状態を指します。神様と人間との間に隔たりがあって、結ばれていないのです。その罪に赦しをもたらすということが、神様と人間との関係の回復、道が繋がることです。神様との繋がりです。神の言葉はその道を整えるものです。神様と人間との接点が整えられた。故に、ヨハネはその道、神様のもとに帰っていく新しい道へと導くために、悔い改めの洗礼を人々に宣べ伝えました。悔い改めは反省をするということではなく、方向転換するという意味です。一人で神様のみ前に反省することではなく、神様のもとに人生の方向を転換して立ち返り、神様と共に歩んでいく新しい道を歩きだしていくことです。その新しい歩みをもたらす悔い改めを洗礼という形で、ヨハネは解きました。ヨルダン川の水を使って、人々に、人々の中に存在する乾いた荒野に潤いをもたらすかのように、洗礼が授けられました。乾ききり、もう朽ちていくと思われていたところに、命の水が溢れ出して、その道が回復するのです。悔い改めの洗礼を授けて、神様のもとに立ち返り、共に歩んでいく道へと導いて活動をヨハネはしていったのです。

 後にヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:15~16)と人々に言います。人々はヨハネこそが自分たちが期待していた救い主、メシアであると思っていました。その人々の心を察知したのか、ヨハネはそのことを拒否し、自分は主に先立って神様との関係、歩みの回復をもたらす悔い改めの洗礼を授ける、主イエスの先駆者に過ぎないと告白しました。彼は人々を主イエスのもとに引き合わせる役割をおって、その役割を終えます。彼はこれから主イエスにもたらされる神様の偉大なわざ、救いの業を告知する荒野で叫ぶ声となって悔い改めを求め、主の道を整え、主の御心を尋ね求めるようにと言うのです。

 その彼の役割は今日の私たちの教会の姿であります。ヨハネが神の言葉を荒野で叫び、悔い改めによって、神様の道を整えて行かれたように、教会そのものが救いをもたらすのではなく、教会は神様の道を整えていくための宣教の器として、神様から委ねられているのです。教会もまた荒野の中にあります。そこで教会は礼拝を通して神の言葉を叫び続け、主の道を整えていく使命に預かっています。伝道が困難な時代だと言われていますが、既存の教会の歩みに固執するのではなく、教会は現実の荒野に目を向け、その荒野に降り注ぐ神の言葉による恵みの水を注いでいくために、教会もまた主の御心を求めて立ち返る必要があるのではないでしょうか。神の言葉は今まさにその時、私たちのもとに降っているからです。

 ヨハネは悔い改めの洗礼を通して、主に先立って行き、その道を整える役割を果たしました。先程も言いましたが、悔い改めは一人の土俵で行うものではなく、方向転換して、その新しい道を神様と共に歩んでいくことであります。だから、荒野の中で乾ききったでこぼこで曲がりくねった道に一人で不安をもちながら、つまずきながら歩むのではなく、なお厳しい現実の歩みの中にあっても、その現実の荒野に神の言葉がくだり、もうひとつの道が、主イエスと共に歩む道が示されたことを信じて、歩んでいくのです。「谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」人は皆と言いますから、一人だけでなく、全ての人と共にこの神の救いを仰ぎ見るように、私たちは招かれているのです。このようにして神様と人とを繋ぐ道は明らかにされました。それを誠に実現してくださる主イエスのご降誕を、希望をもって待ち望み、クリスマスに備えてまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。