2019年1月13日 主の洗礼日礼拝の説教「目に見える姿で」

ルカによる福音書3章15~22節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 本日は主の洗礼日として、礼拝の恵みに与っております。主イエスのご生涯の始まりは主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことからです。ここから主イエスの生涯、宣教の活動が始まっていくことを覚える日であります。そのご生涯の始まり、スタートはどこにあったのか、どこに立たれたのか、そこでどのような思いをもって歩み始められていったのか、主イエスの洗礼の出来事はその立ち位置を明確に表しております。

 私たちもまた、何かを始める時、そのスタートがどこに立っているのか、そのことを考えるでしょう。この六本木ルーテル教会のことを言えば、昨年宣教70周年を迎えましたが、70年の歴史を振り返りつつ、そして71年目の新しい歩みの初めに当たって、この教会はどこに立ち続けていくのか、そのことが問われております。ただ、六本木という地域にある教会ということではなく、教会とは何か、何を伝え、どこに立つのか。そして、この六本木にある六本木ならではの六本木ルーテル教会とはいったいどういう姿の教会なのか。改めて、この主の洗礼日における主イエスの生涯の始まりから、そのことを学び、深めてまいりたいと思うのです。

 共にお聞きしました福音書は、主イエスの洗礼の出来事の前に、洗礼者ヨハネの言葉と活動、そして囚われの身となり、彼の活動が終了する出来事までが記されています。15節には彼についてこう記されています。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ヨハネは人々に神様に立ち返り、神様と共に生きて歩んでいくために、悔い改めの洗礼を宣べ伝える活動をしていました。それ故、洗礼者ヨハネと言われている預言者です。ユダヤ中から多くの人々がヨハネのもとに来て、水で洗礼を受けました。そしてヨハネの教えに耳を傾けていました。その内容は悔い改めにふさわしい実を結べと厳しく鋭いものでした。人々はヨハネに問いかけます。いったい自分たちはどうすればいいのか。どう生きていけば良いのかと(3:10)。

 ヨハネはある人には下着や食べ物を十分に持っている者は、それを持っていない人に分けてあげなさいと言い、徴税人には規定以上ものを取り立てるなと教え、また兵士の一人には、だましとったりせず、自分の給料で満足して生きなさいと、日常生活における具体的な教えを彼らに話しました(3:11~14)。その彼の教えは、人のものをむさぼりとらず、隣人を愛しさないという神様の律法から来ているもので、それはユダヤ人であれば誰もが知っている教えでした。特別何か真新しい教えを教えているのではないのです。ただ、ヨハネの力強く、厳しい教えが人々の心を打ち、このヨハネこそが自分たちが待ち望んでいたメシア、救い主ではないのかと、人々は期待していました。ヨハネの教えの前に、自分たちの罪の弱さが明らかにされ、それを的確に指摘し、答えを与えてくれるヨハネこそが自分たちを導いてくれる救い主ではないのか。そのように、長きに渡って待っていた彼らの期待は大きかったでしょう。

 ヨハネは彼らの期待から身を引くかのように、自分はそうではないと言います。それどころか、自分よりももっと優れた方が後からこられ、自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない。と言いました。当時、履物のひもを解く行為は、奴隷の仕事を指します。その奴隷の仕事をさせていただく値打ちすら自分にはない。要は、自分にはそのような救いをもたらす力など、全くないのだと言われるのです。そして、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と言います。謙遜しているのではなく、明らかに区別している彼の言葉です。ヨハネの水による洗礼では、人を救うことはできない。人々がどんなに自分のことを力強い預言者、メシアではないのかと期待しようとも、自分には人を誠に救う力はないのだと、ヨハネは言うのです。

 このヨハネの言葉は深く、重い言葉ではないでしょうか。人々から見て、彼には人々の期待に応えられるだけの力とニーズが備わっているわけです。人に救いを施せるメシアではないのかという期待の眼差しがあるからです。自分の力に慢心すると、あたかもその力によって人を救うことができる、支配することができるという錯覚を生みます。救いの手段が神にではなく、自分にあるのだと錯覚するのです。この前、カトリナ会で、現代に語りかけるルターの「贖宥状」(免罪符)の項目を皆で読みましたが、罪赦される救いの手段が当時の人々のニーズにあった「贖宥状」というお金を出して、代用できる代物に取って代わってしまっている危うさがあったことを思い起こし、それは現代でも、そういう代物が蔓延っているということを学びました。それを生み出してしまうのは、教会も例外ではないということなのです。だからこそ、教会はどこに立つのかということが、時代や国を問わず、いつでも問い続けられるのです。

 ヨハネは自分の立ち位置をわきまえていました。自分の役割を全うするために、メシアではなく、ひとりの下僕、それも履物のひもを解くというどの奴隷もがする奴隷の行為すらするのにふさわしくない下僕の中の下僕だと言うのです。あなたがたを真に救うのは、私より後から来る方であり、その方は聖霊と火による洗礼を施すであろうと。聖霊は神様の意志であり、働きを表します。人に命を与える神様の愛の息吹であります。自身は、その神様のもとに立ち返ることを説いた預言者に過ぎないというのです。それがヨハネの水による洗礼でありました。

 ルカ福音書はこの後すぐにヘロデ王によるヨハネ投獄の出来事を記します。この後、主イエスに洗礼を授けるはずのヨハネがなぜ投獄されて、活動を終えてしまうのかという時系列的な矛盾を感じますが、これはヨハネが主イエスの先駆者であり、主イエスの歩みがヨハネのもとから始まっていて、ヨハネと同じところから始まったわけではないことを指しているからです。ヘロデの大きな罪の前に、ヨハネですらどうにもならないということを福音書は記しています。

 そして、ルカ福音書はまた、他の福音書とは違って、主イエスの洗礼の出来事をこのように記します。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」主イエスは祈っていたと言います。主イエスの生涯は祈りの生涯であったと言える程に、旅の中で祈りにおける父なる神との関わり、交わりを大切にされました。そして、今主イエスが祈られているところは、ご自身が洗礼を受けられたところです。洗礼を受けられ、自身も罪人の一人として、人々の中で祈っているのです。罪の中にあって、叫び声とも言える祈りも人々の中にはあったかと思います。主イエスはそれらの人々の祈りと共にあって、人々の祈りを取り次いであげるということではなく、主イエスは人々と共に祈りの中にあり、この祈りの内に、人々と共に歩んでいかれるのです。それは人々やまたヨハネ以上に、主イエスが下僕となって、深い淵から父なる神様への信頼の内に、祈っている姿がそこにあります。人々の祈りと同じところ、いやそれ以上に、ご自身はへりくだって、私たちの祈りを集約し、聞いてくださるのです。

 そして、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」ということが起こりました。その祈りは天に聞かれ、主イエスの上に聖霊が下ります。それも、鳩のように目に見える姿とあります。聖霊が鳩になって降ってきたのではなく、聖霊という神の霊の働きが、鳩が下るように、主イエスの上に降ったということ、すなわち主イエスの姿を通して、神の霊の働きが明らかにされていくということです。この目に見える姿というのも、ルカ福音書だけに記され、ルカ福音書はこのことを強調しています。

 父なる神様の意志、その働きが主イエスの姿によって明らかにされていくのです。その主イエスは今、罪人たちと共にあって、洗礼に与り、祈りの中にあります。あなたがたは罪人で、いずれ裁かれてしまう存在だから、罪のない私が助けてあげようと言って、人々の先頭に立って、ご生涯を歩み始めたのではないのです。自身も罪人の一人として同じところに立ち、さらには人々に仕え、愛をもってして共に生きていくために、その生涯を歩み始められました。その生涯は十字架に続く歩みです。そして、最後はご自身が十字架に掛かられ、そこで終わるのではなく、復活の命を明らかにして、洗礼の救いを明らかにされるのです。パウロがローマ書で言うように、洗礼の救いは、古い自分がキリストの十字架と共に死に、キリストの復活と共に、新しい自分となって、主イエスと共に歩んでいくことなのです(ローマ6章)。

 主イエスの生涯はここから始まります。この立ち位置から歩み始めました。自身が下僕となり、仕える方として、私たちと共に歩み始めてくださるのです。教会は何年経とうと、教会の始まりもまた、この主イエスとの歩みを共にするものであり、キリストの言葉に立ち続けるのです。福音という神の言葉を、キリストと共に宣べ伝えていくのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、