2019年1月20日 顕現節第3主日の説教「驚くべき恵み」

「驚くべき恵み」 ルカによる福音書4章16~32節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて公の生涯を歩み始められた主イエスは、エルサレムの神殿があるユダヤの中心都市ではなく、ユダヤの民だけでなく、異邦人も多く住んでいたガリラヤの地から宣教を開始されました。ルカ福音書では主イエスの故郷であるガリラヤ地方のナザレから主イエスが宣教を開始されたことを告げています。そこで主イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、」と書かれているイザヤ書の言葉に目を留め、その御言葉は今日実現されたと宣言されたのです。

 神様の救いである福音は、神の民であるユダヤ人に真っ先に実現したということではなく、貧しい人、捕らわれている人、目に見えない人、圧迫されている人と言った、小さく、弱くされている人々に告げ知らされ、彼らに実現すると言われたのです。ユダヤ人とか異邦人と言った民族の枠を超えて、また宗教指導者や社会的地位のある人であるかないかという枠をも超えて、神様の福音とは一人一人を解放して再び立ち上げる救いを与えるものなのです。

 日本の著名な宗教哲学者であり、植村正久から洗礼を受けた波多野精一はキリスト教についてこう述べています。「ギリシャ哲学の後期に於て現はれたる宗教が学者の宗教なるに反して、基督教は純然たる人民の宗教なりき。智者や達者や義人の宗教に非ずして貧しき者罪ある者赤子の宗教なりき」貧しき者罪ある者赤子と言った、何も持たざる者、誇れるものがないもの、小さきものが救われる宗教であるということ、敢えて言えば、救われるのに、人間の知識や理解、正しさが条件ではないということです。キリスト教は一般的にユダヤ教から生まれ、民族の枠を超えて、根本的に革新した宗教であると言えますが、この宗教の内実は神の御子イエスキリストにおいて現れた神様の救いの教えであります。それは主イエスのご生涯の宣教の歩み、人々との関わりにおいて現されていくのです。

 主イエスの時代、イスラエルでは各地に建てられたシナゴーグと言われる会堂で、安息日に礼拝が守られていました。礼拝の中で信仰告白とお祈り、聖書の朗読、そして聖書の解き明かしが行われていました。この聖書の解き明かしは今で言う説教と言えますが、会堂を管理する会堂司という人が依頼した人によって、行われていたそうです。主イエスはこの故郷ナザレに来る前は、安息日ごとにガリラヤ中にある会堂を訪れて礼拝を守っていました。そして前の15節に「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とありますように、その評判はこのナザレにも伝わっていたのでしょう、その評判を見込んで、会堂司は、この日の解き明かしを主イエスに依頼したのだと思います。

 主イエスの手に渡されたのは預言者イザヤの巻物でした。イザヤは主イエスが生まれる約700年前に活動していたイスラエルの預言者です。このイザヤ書が記されている背景には、長年のバビロン捕囚というイスラエルの国が外国の奴隷となって、苦難の中にあった神の民の姿があります。彼らもまた捕らわれ、視力を失い、圧迫されている状況の中で生き続けてきました。ほぼ生きる希望を失いかけていた同胞たちに、預言者イザヤはその苦難の只中から救ってくださるメシア、救い主の到来を熱心に解き明かしていたのでした。主イエスが目にとまった箇所はイザヤ書61書1~2節です。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年」貧しい人、捕らわれている人、つながれている人、そのような状況にあるユダヤの民が必ず解放されて救われることを力強く語りかけているのです。最後の「恵みをお与えになる年」というのは、ヨベルの年と言われる50年に一度やってくる解放の年のことです。ヨベルというのは角笛という意味で、この年の新年にその角笛が吹き鳴らされることから、ヨベルの年と言われるようになりました。これはレビ記の25章に記されているモーセの律法です。どういう内容かと言いますと、例えば借金を抱え、貧しさ故に自分自身を売り、奴隷として働かざる負えなくなった人は、ヨベルの年になると無条件に奴隷状態から解放され、さらに借金もゼロになります。また、同じ貧しさ故に土地を手放してしまった人は、この年になると無償で土地を返してもらえるようになります。全く無条件に、自分が抱えている借金、重荷から解放されるのがこのヨベルの年、神様からの恵みの年なのです。貧しい人、重荷を抱えている人にとって、それはこの上ない喜びであり、自分たちの側には全く解放される条件や価値はないのです。

 主イエスはこのナザレの会堂で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。(4:21)と福音を宣言され、それはいつか先の話ではない、今この時、あなたがたが聞いているこの時をもってして、実現したと言われます。その言葉を聞いた会衆は主イエスをほめますが、主イエスはエリヤ、エリシャの時代に、ユダヤ人では異邦人だけが救われた話をして、その神様の恵みはあなたがたの専売特許ではなく、最も貧しい者のところにまず注がれると言われます。そして、会衆は怒り狂い、主イエスを山の崖から突き落として殺そうとするのです。主イエスは人々の間を通って、崖から落とされずに済みますが、この人々の怒りの只中を通って、公生涯の道を歩まれていくのです。人々の怒りの只中にある道は、やがて十字架への道であることが明らかにされていくのです。主イエスが語られる聖書の実現、ヨベルの年と呼ばれる主の恵みの年は、ただ解放を告げているだけでなく、主イエスご自身が主の僕として貧しい姿となり、人々から罵られ、虐げられ、そして十字架にかかることによって、彼らの代わりに罪を背負うことによって、彼らを罪から解放されるのです。

 主の恵みの年は、この主イエスによって実現されるすべての者が解き放たれる時であります。そして、貧しい人、捕らわれている、つながれている人、それは他の誰かというよりも、この自分自身であるということに気づかされるのです。それはただ、自分が虐げられ、生活に困っているという貧しさ、囚われていることだけでなく、自分を正当化し、相手よりも優位に立とうとして、相手を裁いてしまう心の貧しさ、囚われた心でもあります。

 主イエスはその私たちの貧しく、囚われた心を裁くためではなく、そこから解放してくださるために、私たちと共に生きてくださるのです。そのために、主イエスは私たちの只中に来てくださいました。私たちを解放し、神の子としてくださるために、神様に属するものとして、私たちひとりひとりを招いていてくださるのです。

 ナザレの人々は主イエスを殺そうとしました。その彼らの姿は私たちと重なってまいります。しかし、主はナザレの人々の間を通り抜け、十字架への道を突き進まれていくのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」、それはこの罪の現実の中に降り立ってくださった主が、私たちを裁かれるためではなく、私たちを愛し、赦すということの解放の宣言であります。真の開放をもたらされるために、主は十字架の死を迎えられますが、そこで終わったのではなく、復活して、この解放への道を確かなものとしてくださったのです。

 貧しい人、捕らわれている、つながれている人に今、真の解放を主は宣言されます。それは私たち一人一人への招きであって、今私たちは主の恵みの時に生きているのであります。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。