2019年2月17日 顕現節第7主日の説教「岩の上に立つ」

「岩の上に立つ」ルカによる福音書6章37~49節 小杉直克 兄

本日の御言は「人を裁くな」という言葉から始まります。これは「イエスの説教」と言われるイエス様の説教の後半部分です。マタイの福音書では5章から始まる「山上の説教」と言われるものです。そうして、この説教は一般の群衆ではなく弟子達と共にイエス様に付従って来た人達に話されたものです。

この「人を裁くな」という言葉には思い出があります、それは大学3年生の時のことでした、当時、私は法学部に在籍し法律を学び出来れば法律関係の仕事をしたいと希望に胸膨らませていました。ところが、この御言「人を裁くな」という言葉に突き当たりました。将来法律関係の仕事に就くとしたら、私はどういうことになるのか考え、悩みました。「人を裁くな」という御言にはこのような思い出があります。

「裁くな」という意味は、神様の前でその人を裁く。有罪と決めるということです。裁く方も裁かれる方も共に神様の前に立つということになるのです。

イエス様は人を裁くなと言われた後に譬話をされます。始に「盲人が盲人の道案内ができようか。二人とも穴に落ち込みはしないだろうか」と言われます。「穴」の意味は井戸の穴などをいい、その意味は時に「死」を意味します。すなわち穴に落ちて二人とも死んでしまうということです。つまり、それは共に罪人として裁かれるということに繋がります。

更に、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われます。自分の目の中に丸太が入っていれば、相手の目の中のおが屑などとても見えないはずです。ですから相手のおが屑を取らせてください等とはとても言えないはずです。ですからイエス様はその様な人達を「偽善者」ではないかと言われます。

「偽善者」とは元々は解説者、演説者、俳優を意味するものです、また意図的に良心に反する見せかけの行動を意味します。ですから、先ずは自分の目の中の丸太を取り除きなさいと言われます。そうすればよく見えるし、相手を理解する事も出来ると言われるのです。言葉を換えれば、先ずは自分の罪を自覚することであり、他者の罪を指摘出来るのはそれからだということです。

次に「良い実」と「悪い実」について語られます。良い木は必ず良い実を実らせます。悪い木は、即ち腐った木は悪い実しか実りません。ですから良い実の様に見せかけようとします。これも又偽善的な行為と言えます。主は言われます「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除く事が出来る。」と。

私は毎日車に乗っていますので、車の中でラジオをつけて交通情報を聞いています。すると番組で人生相談という番組があり、聞くともなしに聞いています。以前の人生相談は、相談者の抱えている悩みや、問題にどのように対処したらよいかを語っていました。しかし最近の番組の回答者は相談者自身が気づかずに持っているもの、相手に対して配慮のない一方的な思い、それらを排除して、相手を受け入れ許す道を探り出すことを勧めています。

目の見えない人が、目の見えない人を道案内する、そのようなことは不可能ですし、それは偽りの行為です。自身の目に丸太があるのに、相手の目の屑を取ることは出来ません。これも又偽りの行為です。ですから、貴方は相手を裁くことが出来るのですかと問うているのです。

主イエスは「人を裁くな」と言われます。それは人を裁くということはその裁く相手と自らも同じ 裁きによって裁かれるということです。ですから、裁くのではなく、赦し、与えなさいと教えておられるのです。

「許す」、「愛する」とは簡単なようで簡単なことではありません。この「イエスの説教」の内の27節に「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われています。そのことを行いなさいと。

46節に「わたしを『主よ、主よ、』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と、この御言は大変緊張する言葉です、この言葉は弟子達と主に付従って来た人達に語られたのです。イエス・キリストの教会に連なる人々に語られたのです。

主の教えを実行、実践することは、そんなに容易な事とは思われません。言葉では簡単に言えるかも知れません。「裁くな」とは言葉で言うだけではなく、行動で示さねばなりません。時には心の中で裁いていることもあるでしょう。言葉で言い現わさなくとも心で思うならば、それはやはり裁いていることなどです。諺に「目は口ほどにものを言い」と言います。「口では許すと言いながら、心では許していない」と言うことです。裁くことの意味するところは意味深く、その意味するところを心に尋ねなければなりません。

主イエスに従うということは、主の助けが無ければ、それは出来ないことです。初めに従ったペテロでさえ、主イエスが捕らえられた時に、「あなたはイエスと一緒にいた人だ」と言われて、三度知らないと答えました。あのペテロは私ではないと言い切れるでしょうか。

この「イエスの説教」の最後において主イエスは言われます。「わたしを、主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と。イエスを主であると呼び、従うのであれば、主イエスの言葉を実践しなさい、時には敵をも愛し許しなさい、そうして共に喜びなさいと、敵対心を捨て手を取り合いなさいと話されました。偽善者になってはならないと。

それでは、主イエスは主の言葉を実践する人とはどのような人なのかを示されています。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と言われます。「岩」とは、主イエスご自身のことです。主の言葉に従う者であるならばこの岩の上に立ち、神様の言葉を実践し続ける限り、主は守り導いて下さるのです。旧約聖書の出エジプト記(17:6)に神様はイスラエルの民が、水がなく、争いが起きた時、ホレブの岩の割れ目から水を出しモーセを通してイスラエルの民に水を与えたように、主イエスは、求める人には霊的な命の水を渇くことなく与えて下さるのです。このイエス・キリストである岩に立たねばなりません。それには「地面を深く掘り下げ」ねばなりません。

では、僕であることを願う者たちはどうすればよいのでしょう。40節に「弟子は師にまさるものではない」という節があります。弟子は幾ら師に学んだからと言って、師そのものにはなれないが、学ぶことにより、師に似たものにはなれる。ひたすら、師に従うことで、師と同じ様な道を歩むことが出来るということです。

「師に似たものになれる」とは、主の御言、主の教えをどのように学び取り確信するのかということです。そうして何を為すべきか。そうして僕は何を行い、何を行わないのか、何が御心にかなう事なのか。「裁く」とは何を行い、何をしてはならないのか。そのためには「十分な修行」が大切であり。裁かず、赦し、愛するには何を為さねばならないか、御言が何を指し示しているかを塾考しなければなりません。そうして主の導きを待たねばならないこともあるでしょう。地面を深く掘り下げて岩に辿り着く迄です。そうして僕は御言を実践することが出来るのです。

岩の上に土台を建てれば、洪水になっても、嵐が来ても、苦しみや、苦難があっても押し流されることはないのです。しかし、岩の上ではなく、地面に建てる人もいます。岩の上に建てた人も、地面の上に建てた人も、嵐の洪水はやって来ます。ですが、岩に建てた僕はどんな嵐であろうとも、逆境であろうとも、イエス・キリストという土台を持つ僕は嵐に耐えることが出来るのです。嵐に持ちこたえることが出来るには、主イエスの言葉を実践し続けることなのです。

主イエスは、どんなときにも、主の言葉を実践できるように私たちを導いていて下さるのです。これからも、主が御顔を向け、主の導きが豊かに在りますように。 アーメン