2019年3月10日 四旬節第1主日の説教「幸いに生きるため」

「幸いに生きるため」ルカによる福音書4章1~13節 藤木智広牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

3月6日に灰の水曜日を迎え、イースターまでの期間を、主イエスの受難と十字架の死を覚える四旬節の時を歩んでまいります。自分自身の信仰生活を振り返る時となるでしょう。本日はその四旬節の最初の主日を迎えました、この四旬節の第1主日には、毎年主イエスが40日間荒野で誘惑を受けられた聖書の物語から御言葉を聞いてまいります。40日間悪魔から誘惑を受けられたとありますが、1節に「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と記されています。この霊というのは、悪霊のことではなく、神様の御力、または働きとも言える聖霊のことです。また、引き回されるというのは導かれるという意味もあります。ですから、主イエスは聖霊に導かれて、荒野に赴き、悪魔から誘惑を受けられたのです。福音書は主イエスの宣教開始の前に、この誘惑物語を記しています。なぜ神様はわざわざ荒野という場所に主イエスを導いて、誘惑を受けさせられたのかと疑問に思うかもしれません。荒野、そこは人が住めるような環境ではありません。荒涼とした大地です。「寂しいところ、人里離れたところ」という意味合いもあります。人はいないのです。主は救いを待ち望む人のところにまず行ったのではなく、誰もいないところに行かれました。それも宣教の準備をするために一人になったのではないのです。この悪魔の誘惑、悪魔との戦いにおいて、主イエスという救い主とは誰か、どのような救いを私たちにもたらされるのかということを、そのご自身の姿を通して私たちに伝えているのです。その救いの御業が宣教されるお姿の中に現れてくるのです。

悪魔はまず主イエスの空腹を知って、その辺にある石ころをパンに変えて、飢えを満たしたらどうだと言います。飢え乾きは切実な問題です。食糧問題を考えるでしょう。世界中に満たされていない人たちがいる。その人たちを満たして、救ってあげたい。そのためにも、石ころをパンに変えて、そのパンをあなたと同じように、飢えているすべての人に、分け与えたらどうだ。その神の力を使えば容易なことだし、そのための力ではないかと悪魔は迫ります。しかし、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。と言います。この言葉は、旧約聖書申命記の言葉から来ています。申命記には、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(申命記83)」と記されています。確かに、自分の価値観や権威の力を使えば、その食糧問題は解決するかもしれません。食料は行き渡るようになるのかもしれません。しかし、人を真に生かすのは、神の言葉であると言います。神の言葉は、必要な糧を私たちに与えてくださる祝福の糧として、感謝して頂きなさいということを私たちに教えます。ここで主イエスは食べることを否定して、神様の御言葉だけを聞きなさいと言っているのではないのです。

この石にパンになるように命じたらどうだ。この悪魔の言葉は、その問題を解決するために、手段を選ばなくなるということに通じます。自分が力を発揮すれば、空腹が満たされ、食糧問題はなくなるという結果論だけに固執してしまい、その本質が問われてきます。人間、手段を選ばなくなると、雑になってきます。極端な話、食べ物さえあれば大丈夫だろう、という感覚に陥り、食品偽造の問題なども出てくるでしょう。手段を選ばず、自分の価値観で都合のいいように力を発揮して、食料を得るところに、そのような大きな問題が後になって見出されてくるのです。神の言葉が直接空腹を満たしてくれるわけではなりませんが、神の言葉はその自分の価値観や正しさに危機を促し、命を与えてくれる食料の恵みに気づかせ、食料が与えられればいいという結果論に固執する私たちの思いを開放し、真に生きることができる命の御言葉です。空腹を満たすために、食糧さえあれば良いという思いは、命を得させる食糧を軽く扱い、結果命を軽んじていることと変わらないのです。ただ命を持続させるための食糧だけで私たちは生きているのではなく、その命を発揮するため、命を使うためのエネルギーとなる大切な食料を恵みとしていただくということを神の言葉は私たちに告げるのです。主イエスはその神の言葉に信頼し、悪魔の誘惑を退けるのです。

この主のまなざしと悪魔のまなざしは続く2つめの誘惑の内容でも明確な違いが見られます。悪魔は主イエスを高いところにつれていき、世界を見渡しながら言います。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」あなたが一切の権力を持てば、世界は丸く収まるのではないかという具合に。あなたが人々の支配者になり、人々を救えば良いと。悪魔であるこの私を拝めばそれは叶えられると言います。悪魔を拝むことで、主イエスが支配者となり、人々を導いていく。しかし、その働き、業は悪魔に軸を置くものであるということ、すなわち悪魔の業であるということを意味します。それは人間のためではなく、自分のため、自分の力の偉大さを誇ることです。それはまた神様の名を借りて、また聖書の言葉を借りて、あたかも自分が正しいものであるかのように思い込み、人を支配しようとする人間の姿と重なるでしょう。人のため、世のためと、もっともらしいことを言いつつ、自分の正義を振りかざし、自分のために人を支配しようとする独裁政権と何ら変わりはないでしょう。それは愛の業ではなく、自己実現に執着する悪魔の業なのです。

主イエスは『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と答えられます。悪魔に言いつつも、まずその姿勢を自分自身が貫いていくのです。支配するのではなく、仕えるということ。それは神様を愛し、神様に委ね信頼して生きなさいということです。さらに、主イエスは福音書の中でご自身のことを指してこう言われるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ1045主イエスの方から私たちに仕えてくださるために、近づいてきてくださったということです。悪魔の誘惑を通して見出される自分の弱さ、無力さ。そんな自分を主は裁きの眼差しで見つめておられるのではなく、その弱さ、無力さを受け止められ、そこに仕えて共に歩んで下さる主イエスは、愛の眼差しに満ちているのです。それは、主は惜しみなくすべてを投げ打って、私たちを愛してくださるということです。あなたが神を愛し、神に仕え、悪魔の誘惑に陥らずしっかりと立ち続けられるよう、この私こそがあなたたちに仕える。あなたたちと共にいるから、神の愛に信頼して仕えてほしい。そのように、いつでも私たちのことを気にかけてくださり、慈しんで共にいてくださる主に、仕えなさいと言われているのです。

最後に悪魔は「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と言い、聖書の言葉を用いて、天使が守ってくれるのだから大丈夫だろう、神様を信じているならそれができるはずだと言います。主は言います。「あなたの神である主を試してはならない」。主を試すということ、それは疑いからくるものです。本当に神様は助けてくれるのか、試してみたい。助けてくれたら信じられる。そこに救いがあるのかと思わされるのです。

実は、この悪魔の言葉は、主イエスが十字架に付けられたときに、人々の声となるのです。十字架につけられた主を人々はみて叫びます。神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてきたらどうだ。そうすれば神様はその苦しみから助けてくれるのではないのかと。しかし、主イエスは十字架から降りられないので、そこで息を引き取るのです。「あなたの神である主を試してはならない」それを、身を持ってして貫かれた主のお姿がそこにあるのです。主を試すところに真の救いはない、あなたの望みをただ叶えるところには、本当に満たされるものがないのだと言わんばかりに、主はそのご生涯を、神様の御心に委ね、人々と共に歩んでいかれるのです。

主イエスは悪魔の誘惑をすべて退かれましたが、ルカ福音書だけが「時が来るまでイエスを離れた」と記しています。悪魔はまた主イエスの前に現れるということ、それはイスカリオテのユダの中に入り、主イエスは人々の手に引き渡されて、十字架の死を迎えるのです。一見、それは悪魔の力に打ち負かされたような印象を与えます。しかし、主イエスはこの十字架をもってして、悪魔の誘惑を完全に打ち破るのです。それは、主イエスがこの十字架の死をもってして、人々への救いを完成されるからです。主が私たちを救うために、この世に来られ、ご生涯を歩まれた。それはどのようなご生涯か。ただ安全地帯の中で、人々の救いを願っていたのではなく、一人一人の人生を愛し、慈しまれ、共に共感してくださる愛のみ業を貫き通された。神様の教えをただ遵守し、その見本を人々に示されたのではなく、惜しみなく、自らの姿を通して、神様の愛を与え続けてくださるのです。この主の私たちへの愛が悪魔の誘惑を打ち砕いたのです。主イエスの偉大さ、神の子としての無限大の力が誇示されたことによってではなく、私たちへの愛によってです。

私たちも誘惑の途上にあるかと思います。苦しみや悲しみを経験します。悪魔はそんな自分に魅力的な言葉をかけます。弱いなら強くしてやろう。望みのものを与えよう。その力を拒絶する力は私たち自身にはないのかもしれません。誘惑が私の心を揺さぶる。しかし、私たちの只中に来てくださった主イエスはその誘惑に打ち勝ち、弱さ、無力さのある私の存在そのものへの愛を、御心としてお示しくださいました。私たちが望む以上に、私たちが真に生かされる道を、主は備えていてくださり、愛をもってして導いてくださいます。主はこの誘惑の外ではなく、内におられ、私たちを一人にはさせないのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。