2019年3月31日 四旬節第4主日の説教 「帰るところ」

「帰るところ」 ルカによる福音書15章11~32節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

マザーテレサがこういうことを言っています。「わたしたちはとてもすばらしいことのために創られました。それは生きて愛されるということです。」愛されるために人は創られた、生まれてきた。「君は愛されるために生まれてきた」という有名な韓国の賛美歌もあります。誰から愛されるかというと、もちろん私たちを創られた神様です。神様から愛されて生きる、それは神様の愛のご支配の中で私たちは生きているということです。

神様の愛、それは人間が思いつく気分的なものでもなく、条件づけられた縛られたものではありません。パウロはローマ書で「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と、その計り知れない神様の愛を語っています。しかし、私たちは本当のところ、神様の愛をどのようにして知ることができるのでしょうか。それとも私たちはこの愛を見失ってはいないでしょうか。「愛されている」、実はその言葉だけがむなしく先走ってはいないでしょうか。言葉だけが先走って通り過ぎてしまい、自分の中に何も残らないということがあります。最も大切なことを、最も大切な自分の心の奥深くに迎え入れることができないというもどかしさを私たちは経験します。

本日の福音である放蕩息子のたとえ話は、ふたりの兄弟の視点を通して、遠いのに気付かされ、近いのに気付けないという不可思議さともどかしさに包まれた神様の愛について主イエスが語られる愛の物語であります。

愛の物語というからには、スポットライトが当てられているのは、放蕩息子の弟だけではなく、25節から登場する兄にも同様に当てられています。ふたりは似ているのです。人生の道は違っても、やはり兄弟です。父親の財産を分け与えられる兄弟であり、父親から両方とも同じように愛されている兄弟なのです。

弟は父親の財産の分け前を、父親が生きているにも関わらず、父親に頼んで貰い受けます。あたかももう父親が死んだかのように、彼は自分の都合で財産を相続しました。そして旅に出て、放蕩の限りを尽くす、すなわち自分勝手にありのままに人生を歩み出したのです。彼は豊かであったでしょうし、父親から離れることによって、父親のしがらみから抜けて、自由を得たという思いにあったかと思います。もう父親、家のために働かなくていいのです、奉仕しなくていいのです。さらに、父親からの助けも必要ないし、愛も必要ないと感じたでしょう。彼は独立して、気ままに暮らしたかった、それで生き続けられるという自信があったのです。

しかし、彼の境遇は一変します。財産を使い果たし、彼が住んでいた地方で飢饉が起きて食べることにも困り果て、挙句の果てに、ある地主の家の豚の世話をし、豚の餌にありつこうとしてまで、飢えを満たそうとするのです。豚、それはユダヤ人にとって忌むべき家畜です。その豚の世話をする、豚の餌を求めるということは、彼がどれほど落ちぶれたのかということがよくわかります。そんな彼を助けてくれる人は誰もいなかった。彼はこの時ほど孤独を感じたことでしょう。財産で何でもそろうことができた、孤独感をまぎらわすことだってできたでしょうし、そのような安心感の中で生き続けることができるという自信があったでしょう。しかし、今まで彼と共にいた人は皆彼の下を去って行ったのです。結局誰も助けてくれず、愛してくれなかった。この世界の常識が、彼の現実そのものを表している。放蕩の限りを尽くし、自由を得た生活は、一気に崩壊したのです。

私たちの生きるこの現実世界、富みのあるところに人も集まり、富が無くなるのと同時に、人も去っていくという現実の姿があります。それを非情と捉えるか、いやそれはごくあたりまえのことかも知れない。あたりまえだけど、認めなくてはいけない現実の姿ではあるが、そこで気付かされるのです。生きていくとはどういうことかと。放蕩の限りを尽くし、自由気ままに生きられるという生き方、裏を返せば、その生き方しかできないということです。限りあるものへの執着は、限りある生きざまに縛られるということです。「私」という生きざま、その人生を見失うのです。

しかし、彼は全てを失い、見失いつつある己の生きざまに向き合い、我に返って、父親を、父親の愛を慕い求めたのです。私は罪を犯したという告白をする、すなわち悔い改めたのです。悔い改め、そう方向転換です。主なる神様に立ち返るように、彼は父親の下に立ち返るのです。放蕩の限りを尽くし、好き勝手に生きた揚句、全てを失った自分は、もはや父親の息子とも呼ばれる資格はないというけじめをつけるのです。彼の決意はごく普通の筋の通った理屈です。さらに言えば、彼がそのけじめをつけても、父親が彼を許してくれるという保証は全くないのです。雇人として迎えられるどころか、門前払いをくらい、追放されてもおかしくないのです。父親の愛の懐に自分が入れる隙間すらあるのだろうかという心境です。

しかし、彼は父親の愛の懐に全身全霊包み込まれる体験をするのです。父親は彼を見つけ、彼に走り寄って、接吻します。そして、弟の弁解を聞くまでもなく、父親は弟に良い服を着せ、指輪をはめるなど、彼を愛してやまない父親の愛が彼をしっかりと包み込んでいるのです。弟息子の弁解も筋の取ったものでしょうが、そんなことを超える喜びが祝宴という形で催されています。

物語はここで終わりません。兄が登場します。15章の1節から3節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」と記されています。ファリサイ派と律法学者は、徴税人や罪人と交わる主イエスに対する不満を「不平」という態度で示しているのです。彼らは主イエスその人より、徴税人や罪人を気にしています。自分たちではなく、神様の前で罪深い徴税人や罪人を迎えるとは考えられないし、筋が通っていないという気持ちがあったのでしょう。その気持ちがこの兄の気持ちとシンクロしているかの如く、弟への接し方に不満を抱くのです。それは弟に対する不平でした。父親に訴え出ます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』兄は弟に対する父親の態度が許せないのです。しかるべき筋を通すやり方で、弟を戒めるべきであるのに、父親はむしろ弟を愛しているのだから。父親の弟に対する愛が納得いかないし、理解できない。兄は、むしろ長年仕えてきたこの私こそが、真っ先に愛されて、それ相応の報いを受けるべきではないのか、という思いを父親にぶつけるのです。そう、この兄も、弟と同じように、父親からの財産という報いが欲しかった、その証が欲しかったのです。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。父親は兄にこう言います。兄に対する特別な配慮でもなく、あなたは私と共にいて、私の愛がわかるはずではないかと語るのです。一緒にいる、全部お前のものだ。その父親の計り知れない愛の懐に、兄も招かれているのです。ここで一緒に生きようと。しかし、兄は、父親の弟に対する愛の深さ、非常識な愛に躓いた。自分の筋、自分の良心にそぐわない神様の愛にこそ、兄は反発を抱く。不平をいう。近くにいるのに、その愛に躓くという罪を犯している兄の姿が垣間見えるのです。そう、それは今このたとえ話を聴いているファリサイ派や律法学者が不平をいうように。主イエスが語られる神様の愛に、彼らも躓いているのです。そして、彼らは、その躓きから、主イエスを十字架につけて殺してしまいます。彼らは彼らなりに、自分たちの良心を通そうとするために、筋を通すために、主イエスを十字架への道と追いやるのです。この兄の思い、非常識だとも思える父親の愛を受け入れることができないという罪の姿を、私たちも担っています。主イエスの十字架は、そんなかたくなな私たちの思いを打ち砕く、赦しの愛そのものです。主イエスは、私たち自身の良心という筋を通そうとする自分の思いを打ち砕いて、私たちを神様の愛の懐に招いて下さる愛を示してくださるために、この世界にご降誕されたのです。

兄は父親に悔い改めたのか、弟と一緒に父親の祝宴に出て共に喜んだのかとうことはわかりません。父親は兄を招き続けたでしょう。お前はいつも私と一緒にいる、私の愛の懐にいて、安心して生きていきなさいと、その恩寵の愛を示し続けたことでしょう。わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

私たちは神様の愛のご支配の中で生かされ、その時と場が与えられています。どんな境遇にあり、その心が様々な方向を向いていようとも、主に立ち返るようにと、神様の愛は私たちを引き離すことはありません。そして、教会は地上における神様の愛の御国を指し示し、私たちの信仰が養われる場であります。今そのことを新たに確信して、今日も神様の愛の懐に招かれ、返ってきた私たちひとりひとりを神様が迎えてくださっています。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。